映画『ヘヴンズ ストーリー』感想
この映画は父母姉を殺された少女、妻娘を殺された夫、その犯人、復讐を生業とする復讐屋、若年性アルツハイマーを宣告された人形師、そうした人たちがいくつもの殺人を介して繋がりっていくお話です。
最初、父母姉を殺された少女サトが妻娘を殺された夫が復讐を誓ってTVに向けて復讐を誓うシーンをみて失禁する章から始まります。この印象的な始まりはtwitter「おもらしクラスタ」の人には是非見ていただきたい……長いから勧めづらいですが。
それはともかくPVみてもこうした始まりをみても最初は「理不尽な暴力」に人間にどう立ち向かっていくか、を描いているのかなと思っていました。こうしたモチーフはここのところ頻繁に描かれているような気がします。最近だと園子温の『冷たい熱帯魚』がそうですし、『ノーカントリー』とかもそうでしょうし。古くから不条理劇はあるわけですけど、こうした理不尽な暴力を描いた作品に個人的には違和感は覚えたりもしてました。
こうした作品において、理不尽な暴力を行使する主体として「理解不可能な他者」(この場合は殺人鬼)が鮮明に描かれ恐怖を覚える。でもそれは本当に理解不可能な他者なのか。こうした当然の疑問に『ハンニバル』シリーズなんかはトラウマ・幼少期の体験である意味合理的に説明してしまいした。が、単純にこうした手法は理解可能なレベルにおろしてしまうっていう点で余り感心しなかったります……。90年代のミステリも同様の手法をとることが多かったように記憶しています。
いわゆる犯人のトラウマなどに原因を帰着させる作品を直線的というならば、『ヘヴンズ・ストーリー』は「殺人」を多面的に立体的に描いていると言えると思います。この作品において担う女性と赤ちゃんを殺してしまった男性が後半において重要な登場人物として描かれています。前半ではこの「殺人鬼」への復讐というのが物語を形成する軸となるのですが、この犯人は後半部において刑務所での手紙と面会で出会った女性(後に若年性アルツハイマーとなる)を支える「人」として出てきます。
この作品は群像劇になってて、終了後の監督のトークショーでも「阿部和重の『シンセミア』のような作品を意識したか」などの質問が出てました。それに対しての監督の回答は「中上の紀州サーガのようなものを目指した」とのことだったように記憶してます( 間違えてたらすみません)。もっともサーガとしてみるには4時間あったとしても広がりは足らないと思いますし、個人的には中上のサーガよりは『シンセミア』的の方に近いような気もしますが……。
その群像劇なのを生かして、複数の人間を複数の文脈、複数の方面から描き出すことに成功しているわけですが、では、それを用いて何を描きたかったのか。
「母と子」を殺した彼は「理解不可能な他者」であったはずなのに、この映画では彼の「生」「愛」といった「人」としての側面も描かれる。でも、結局何故その「母と子」を殺したのかははっきり描かれないんですよね。成長した環境が問題だったとは匂わされますが、それも裁判のときに問題になる程度。本当に「魔」が差したとしか言いようがない。「理解不可能な他者」である彼をトラウマなどに還元して解体するのではなく、「闇」の部分はそのままにしつつも、愛することも愛されることも知った「人間」として描くことに成功している、この描き方が本当に面白かった。
この作品は「理不尽な暴力」を描いているわけですが、その「理不尽な暴力」を受ける側がイノセンスなものとして描かれているかというとそうではない。同時に「理不尽な感情」も何重にも描いている。実際、作中の電話をかけるシーンで「理不尽だとはわかっています。だけど私はあなたが憎い」との趣旨の台詞があったと思います。
4時間半という尺を使って、俗っぽい言葉でいえば「心の闇」を心理主義的に解体するのではく、作中の登場人物が「人間」と「怪物」の両方を兼ね備えていることを群像劇を用いて描いていく。この丁寧さは「理不尽な暴力」を描いた作品の中でも群を抜いて素晴らしいのではないでしょうか。
映画『アヒルの子』感想
二つともセルフドキュメンタリーという自分(主演)の人の人生をドキュメンタリーにするという手法の作品。日本映画学校と聞いて阿部和重しか連想しないぐらい映画に疎い僕としては「そんな手法があるのかー」だったりもするのですが、とにかく強烈に考えさせられました(二作とも日本映画学校の卒制として作られたものだそうです)。
5歳時に1年間親元から離れてヤマギシ幼年部に一年間預けられた『アヒルの子』の主演兼監督の小野さやかはその経験が「両親に捨てられた」という感覚強く持っていたと語り、二度と捨てられないために「いい子」の演技をして生き続けたとナレーションで語る。続けてそうした態度が自分を苦しめ「死にたい」と思うまでになる。そうした強烈に自意識をベタ塗りした内容が語られ、家族一人ひとりにカメラのまえで小野さん本人が過去受けた傷について問いただすといった内容です。
この映画はカメラという暴力が家族にも当然本人にも牙を向き、特に本人の自意識をまるで切り刻むかのごとくの印象を与えます。実際、その上映のあとに行われたトークショーでもこうしたカメラの暴力性にスポットをあてた質問を司会者の方がされていましたが、自意識については非常に他者は語りづらいので「映画」として何か語ろうとしたときに手法といった話になりがちなのだと思います。
しかし、この映画においては「カメラ」の暴力といった側面にはほとんど注目していないように見えます。何故ならカメラが向けられたときの反応といったものをほとんどカットしてあって、登場する人(監督と長兄の1シーンをのぞき)はカメラがないかの如く振舞ってる。「映画的」にどうこうというよりも、徹底的に「私」と「家族」の問題を描きたかったということなのだと思います。
途中、ヤマギシ幼年部について追求しようとする方向性にも行きましたが(社会性、公共性を獲得しようとする方向)、最終的には回帰し本人と家族の問題に踏みとどまってる。
この映画において「カメラの持つ暴力性」がほとんど自覚的には振り返られないのと同時に実はこの映画中で語られなかったことがもうひとつあるような気がします。「いい子」を演じていたという「さやか」がいつその「いい子」のレールから外れたのか、何故外れようとしたのか。少なくともこの「映画」を撮ろうとしている時点で「いい子」のレールから外れているはずで、そうしたところはほとんど描かれませんでした。
この二つが欠けているということは内省的なことをほとんど描いてないんですよね。「撮影」するということへの内省の無さがますます「カメラ」の暴力性に寄与し、家族も本人も傷つけているように見えました。個人的には見た直後、己の自意識だけを特権的に扱おうとしたこの作品に非常に嫌な印象も持ったのですが、こういったところに起因しているのかなと思いました。ただ、そうした内省を欠くということは、客観性を欠くということでもあると思います。ただ、そうした客観性を欠いてまでも迫りたいことがあった、その歪さがこの作品の凄さでもあるのかな、と今改めて思います。
(この文章は3月3日に書かれたもので、途中まで書いたものが下書きで放置されていたので若干書き足して、というか無理に文章を終わらせて公開したものです)。
【告知】冬コミ寄稿しました。3日目東Q-04a
コミックマーケット79
会場:東京国際展示場(東京ビッグサイト)
日時:12月31日(金)10:00?16:00
サークル名:FEF
ブース:東Q-04a
http://twitcomike.jp/?id=0079-3-QQa-04-a
新刊『ワールズエンド・ガーディアンズ』
魔法少女論×郊外論×漫画論
A5中綴じ、146ページ。
価格:500円
↓以下目次
魔法少女論
☆概論 ゼロ年代?テン年代
2つの受容 キャラクター/キャラ 『セーラームーン』→『おジャ魔女』→『プリキュア』 多彩な魔法少女たち 学園異能・戯言系 東方Project メタ魔法少女
☆『東方香霖堂』
「作家」ZUNが恋した幻想郷と村上春樹的想像力
☆『うみねこのなく頃に Episode4』
必要なのは推理でなく批評
【ゲスト論考1】hmuraoka
☆10年代の決闘者(デュエリスト)
トレーディングカードゲーム試論
郊外論
☆概論 00年代?10年代
郊外をめぐる現状 ケータイ的郊外 ケータイ小説の世界観 カワイイ想像力 ネットカルチャーと10年代 【まとめ】魔法少女の否定神学
☆Not 魔法少女 but VOCALOID
―ボカロPVが描く郊外の魔法―
【ゲスト論考2】kei_ex
☆郊外・ニュータウン・ディストピア
――郊外の表象史を通して
1.「郊外」と「郊外化」――今語られている「郊外」とは何か
2.郊外がかかえる問題とは何か ――均質性と入替可能性の憂鬱
3.均質的な郊外への抵抗 ――『忘れられた帝国』と『電脳コイル』
4.とある郊外の均質都市(ニュータウン) ――『とある科学の超電磁砲』
5.偶有性と私的体験のあいだで
漫画論
情念定型、前史 風景主導 線の模索 ハイブリッドとしての魔法少女 コマ割りと余白 黒と白 見開き 枠線
「漫画」という定義の曖昧さを超えて
というわけで、『郊外・ニュータウン・ディストピア――郊外の表象史を通して』というタイトルで郊外の表象論を寄稿させていただきました。2万字あります。字数多い上に脚注多くて編集に大変迷惑かけてそうで申し訳ないです。
一応、試みとしては戦後の郊外文学の歴史を「サバービアの憂鬱」として描き出そうとした川村三郎『郊外の文学誌』、あるいは郊外文学に江藤淳を援用しアメリカの影響を見出そうとする小田光雄『<郊外>の生と死』といった従来の郊外文学史を、90年代宮台郊外論を用いて更新する内容です(あくまでも試みね)。第3章では『テニスボーイの憂鬱』や『忘れられた帝国』の中に郊外の絶望や希望を見出しながら、そうした問いへの答えを『電脳コイル』に求めます。第4章は南大沢、ニュータウン論から強引に『レールガン』論に接続していますが、まあこれはレールガン単独論とみてもいいかもしれません。ただ、『レールガン』は郊外的な作品であり、かつ郊外論の文脈においても重要な作品であるのは確かだと思います。
ただ、執筆動機は郊外論、というよりも実は郊外論論、メタ郊外論に近くて第1章や第5章はそういった内容になっています。郊外はユートピアでもないけれども、同時にディストピアでもない。ただ、郊外はそこに存在し、そしてそこで暮らす人たちがおり、そこに思い入れを持つ人たちがいる。そんな単純なことを文学、作品を通して確認し、その上で僕たちは郊外を語るべきだと思うのです。一部の馬鹿どもの客観性を偽装した「好きな場所擁護」=「嫌いな場所けなし」という郊外論ではなく、「好きな場所」擁護という私的体験を全面的に肯定した郊外論を考えるきっかけとしてこの文章があれば幸いです。
こう書くと難しそうですが、そこまで論理づめをしているわけではないですし、気軽に思いつきの集積としてのエッセイ調で読んでいただければ幸いです。本文中にも言及しましたが、郊外文学論は私たちが思っている以上にエッセイ調にならざるを得ないとは思います。
残念ながら『思想地図β』が発売される前に書かれた文章なので、宇野さんの「郊外文学論」は参照していませんが、比較して読むと面白いかもしれません(宇野さん引き合いにだしてごめんなさい)。僕の方が古い郊外文学観で書かれていると思います。宇野さんの論考は「郊外」的なものの象徴としてありつつも実は郊外文学論の文脈では非常に扱いづらかった村上春樹(なぜならイメージ以上に郊外が舞台になっていない)の位置づけ方や「地方都市」サーガと思われていた阿部和重の神町サーガ*1を実は「郊外」的なものであるとしつつ、それを「都市」として偽装していると指摘している点など大変興味深いところが多いです。ちゃんと読み込んでまた何かエントリを書きたいですね。
*1…先日の「さくらんぼ小学校」事件は神町小学校の人口拡大によって出来たものであり、仙台市のベッドタウンとして人口増加し続ける東根市神町の実態を表すいい例。
そういうわけで、表紙とか裏表紙とか滅茶苦茶格好いいし、現代のサブカルチャーへの新たな切り口となる評論本になっているようです。皆さん買ってください!
僕も31日は午後からブースにいる予定です。今年の大晦日は東京ビッグサイトで僕と握手!
バロットがとにかくエロい!――映画『マルドゥック・スクランブル 圧縮』感想
僕は高校時代から『マルドゥック・スクランブル』は好きで、GONZO版なんかも楽しみにしてたわけですが、ご存知の通りそれは幻に終わったわけです。そういうわけで、ついに動くバロット、喋るウフコックを見れただけで感無量でした。『マルドゥック・スクランブル』といえば寺田克也さんの表紙も本当に素敵ですよね。
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原作の見所といえば2巻から3巻にかけてカジノシーンなわけですが、映画『圧縮』では第1巻の内容まで。描かれているのはバロットとウフコックが出会い、ボイルズとその彼が委託した臓器フェティシズム集団がバロットを襲うまでが映画『圧縮』の内容です。
やはり、アニメ化の見所はとにかくバロットの身体のエロさと林原さんといっていいと思います。とにかくバロットがエロいんです。原作でも冒頭から妖艶な"少女娼婦"として描かれていてるわけですが、それがアニメになるとますます強調されて非常に印象的です。何せドクターイースターらに救出されてそのシーンが終わるまでずっと全裸ですし、ボンテージの服などエロさを強調される描写があちらこちらでされていてアニメでみるとこんなにエロかったのかと改めて思わされましたw
でも、このエロさ、フェティッシュな身体の描写ってのはものすごく重要なんですよね。キャラクターデザインを最初見たときは「ちょっと大人すぎないか」と思ったりもしたんですが(萌えアニメ脳こわい)、アニメ化したものを見るとこれぐらい身体性、エロさを強調したキャラデザってのは必要だったなと思わされます。
『マルドゥック・スクランブル』において作品設定を通低するテーマとして身体と精神の不一致というのがあり、それを象徴するのがバロットでありウフコックだと思います。『エヴァ』においては綾波レイは身体が取替可能であり、レイ自体大人(ゲンドウ)たちの欲望のために存在しました。その綾波レイを色々な意味で引き継ぐ(笑)無口無感情キャラであるバロットの身体は大人たちの欲望の的であり、同時にバロットの「自我」は求められてない。それをあらわすものが冒頭の「自分の存在に疑問を持った子を捨てる」シェルでありバロットと性的な関係を持つ父親なわけです。
ドクターイースターによって救出され生まれ変わったバロットの身体もやはり借り物であり、その人形的な身体はやはり視聴者のフェティッシュな視線にさらされるわけです。そうしたバロットの身体へのフェティッシュな視線を共有する存在として「誘拐屋」(臓器フェティシズム集団)が存在し、彼女はこれをウフコックの力を経て退ける。何にもでターン可能(=身体的なものと切り離されている)なウフコックにこそ彼女は何かを求めようとしている、と改めて感じさせてくれる映画でした。
未来都市描写なども興味はあったのですがどうも紋切り型だし、貧民街の描写もまるで押井守なので、そのあたりはちょっと残念。
前述の通り『マルドゥック』の最大の見所は2巻から3巻にかけてのカジノシーン。絵的にうまく映えないであろうカジノシーンをうまく描写できるかにすべてはかかっているわけですが、とりあえず期待させてくれる1作目でした。
韓国GP騒動の背景――F1を知らない人のためのF1裏ビジネス入門
あれに荒れたレースでしたが、特に怪我人もなく終わり一安心(個人的にはペトロフリタイア時のマーシャル対応が気になりましたが)。レッドブル勢二台リタイアでアロンソ優勝、ついにチャンピオンシップ1位と今年のチャンピオンシップを大きく左右するレースになりました。
さて、グランプリ週末直前まで建設を続けており、未完成部分も多く安全性の問題が指摘された韓国国際サーキット。ハム速などでもとりあげられるなどネットでも大きく話題になりました。小林可夢偉の日本GPの活躍よりも隣国のサーキットのネタの方がネット界ではニュースバリューがあるというのはすごく残念なことですが(そういうところだってことはわかっちゃいるけどね)、色々質問されたりもしたので韓国国際サーキットのこの顛末の裏にあるF1のビジネス事情をF1ファン以外向けに軽くまとめてみました。
F1ファンにとっては公然の秘密状態の話でもあるのですが。
*韓国GPが遅れた理由
韓国国際サーキットの建設が遅れた理由はKAVO(韓国GPプロモーター)に言わせれば7月8月の天候不良だそうで、これが嘘だとは思いませんが90日前サーキット査察ルールを適用すればすでに7月には完成しておかなければならないはず。もっと根本的なところに問題があったと考えるべきでしょう。
そもそもKAVOとは朝鮮日報の記事によれば外部から委員を招こうとしたけれども失敗して組織の大半を全羅南道の職員が占めるというダメダメの第3セクターみたいなもの。実際、韓国GPの締結の契約の際の記事に全羅南道の知事の名前を見て取ることが出来ます。
ちなみに、韓国国際サーキット周辺に街の建設を計画しているらしく、韓国国際サーキットの後半部分(いわゆるセクター3)は市街地サーキットのように壁で囲まれています。将来的には本当に半市街地サーキットにする予定らしいですが、現在は単なる空き地・田んぼです。
こういったことから考えて、全羅南道が町おこし、地域発展として積極的にサーキット開発、F1誘致を行ったと推測できます。
では、なぜサーキット建設が遅れたのでしょうか。これは前記の理由はあれど直接的には単に資金調達に手間取ったと推測できます。2009年8月30日に発表された2010年暫定カレンダーには韓国GPの名前はありません。そして、2009年9月1日に資金調達成功の記事があり、2009年9月22日に発表されたFIAのプレスリリースでようやく韓国GPの名前を見ることができます。
06年に契約していたわけですから本来なら8月の暫定カレンダーに載ってもおかしくないと思いますが、資金調達に昨年9月の段階で手間取っているようです。KAVOに外部から委員を招こうとして失敗したという経緯から、民間資本が予想以上に集まらなかったことが最大の原因ではないのではないか、と推測できます*1
*1…政権交代してF1関連予算が減らされたことが原因とする説もありますが、ソースは発見できず。実際F1支援法は09年に通っています。件の朝鮮日報の記事からはもっとも支援の約束自体は07年にとりつけていたようですが、文化体育観光省はF1招致に懸念を示しているという内容もみてとれます。
*F1開催はもうからない
では、なぜ資金集めに失敗したのでしょうか。それには主に二つの理由の複合と考えられます。
1.韓国国内のF1人気、モータースポーツ人気の低さ
2.F1開催サーキット側は儲からないF1ビジネスの構造
1.韓国のモータースポーツ
今、F1ドライバーを輩出している国の多くは国内にF3というF1の下位カテゴリーを有しています。イギリスF3、ユーロF3(フランスF3・ドイツF3を統合)、日本にももちろん全日本F3というのがあります。ここからF1直下カテゴリーであるGP2(昔のF2に相当、ちなみにF2は別に存在する)などを経由してF1ドライバーになっていきます。その他にも日本にはフォーミュラニッポン(F2などと同格)、SUPER GT(ツーリングカーレース、一番人気がある)、二輪レースなどがあります。
ところが、韓国にはF3格のレースは存在しない様子です(多分)。
過去に行われていたもっとも大きいなレースはF3世界一決定戦であるマカオグランプリのあとのおまけ興行としてコリア国際F3程度の様子(99年?03年開催。ちなみにこれは今年復活するそうです)。これは噂ですが、F1放送すらなかったとか…。
そういう事情でどうやら韓国のモータースポーツ文化はあまり浸透してないと結論付けることができそうです。実際、そういった事情で韓国GPは観客動員が望めないので地元の市がタダ券を配布してそれをめぐってまた一悶着あったなんていう情報もあります。
では、なぜモータースポーツ文化が浸透してない韓国でF1を開催することになったのか、というか何故できるようになったのか、という問題が浮上します。変な言い方ですけど、韓国国民のF1への関心度は高くないし、モータースポーツが好きだからこそF1を誘致したわけではない。そうした状況の中でF1韓国GPが成立した背景には現在のF1ビジネスがあります。
2.F1ビジネス側の問題
F1はどういうふうに収入を得ているのかでしょうか。F1を統括しているのはFIA(国際自動車連盟)になるわけですが、ビジネス面で統括しているのはF1界をすべてを仕切る男・バーニー・エクレストン率いるFOM(フォーミュラワン・マネージメント)になります。
そして、このFOMの収入源としては大きな二つの柱が在ります。ひとつは放映権料、そしてもうひとつは開催権料です。
放映権料はわかりやすいですね。各国の放送局に独占放送権を高額で販売する形です。日本ではフジテレビ、英国では2009年からBBCが放送しています。では開催権料とは何なのか。
これはF1を開催したいサーキット、プロモーターの側がFOM側に払うお金のことです。一般的なスポーツでは施設を使用する側が施設使用料を施設管理会社側に払うわけですが、F1では施設管理者側が施設を使用する側にお金を払うのです(細かく言うと違うんだけど省略)。たとえば、鈴鹿サーキットを運営するモビリティランド(ホンダの子会社)は開催権料をFOM側に支払って鈴鹿で日本GPを開催しています。
この開催権料、意外と洒落にならない金額であり2008年の記事ではF1の総レース開催権料収入は4億350万ドル(約435億円*2)におよぶとの記述があります。この年は年間18戦なので1GPあたり平均24億円をサーキット、プロモーター側はFOMに払っていることになります*3。では、この高額の開催権料をサーキット側はどこから回収するかというと、チケット代になります。
もちろん、チケットは完売近く売れなければペイできませんし、サーキット側に出る利益なんてそれほど多くはありません。
たとえば、日本GPは1987年の以来*4毎年鈴鹿サーキットで開催されてきましたが、07年08年と富士スピードウェイにうつった事は広く知られています。その移った最大の理由は別にF1側が二つのサーキットを審査し富士スピードウェイの方が素晴らしいと判断したわけではなく、富士スピードウェイ(トヨタ系)側が高額の開催権料を提示したからにすぎません。
その結果、富士スピードウェイは07年の大会運営に失敗、08年観客を減らした結果、採算がとれずに08年をもって撤退ということになりました。
これらの事から三つのことが言えます。
1.F1はその国でのF1の人気度、モータースポーツ文化とは関係なしに、お金さえあれば開催できる。(ちなみにサーキットはFIAお抱え技師につくってもらう)
2.サーキット、プロモーター側はF1側(FOM)に高額の開催権料を払っているので、F1側はお客さんの入りなんてまったく関係がない。損をするのはサーキット側だけ。
3.そして開催の新候補地は増えてくれれば増えてくれるほど、開催権料を吊り上げることが出来るのでF1側は儲かる。
こうしたF1側のビジネスがモータースポーツにあまり縁のない韓国にGPを成立させたといってもいいでしょう。
しかしながら、F1人気が低くモータースポーツ文化が根付いていない韓国ではペイはおろかKAVO側、プロモーター側に大損失がでるのは見えています。そうした事情が民間資本を遠ざけ資金調達の遅れ、そして工事のおくれを招いたのではないでしょうか。そんなことがわかっていつつも招致するあたりはさすが行政といったところですが(笑)。
以上まとめると、
韓国にはモータースポーツ文化は定着しておらずF1の健全運営を支える土壌もないが、地域開発として行政がごり押しした結果が、あのような顛末になったのではないかと推測できます。
*2…面倒なので1ドル=100円で計算。もしかしたら円高のおかげで鈴鹿サーキット側は助かっているのかもしれません。
*3…グランプリによって金額は違う。新規サーキットは30億円とも40億円ともいわれる。これは余談だがホンダはF1のために年間300億円つぎ込んでたとか。
*4…ちなみにこれはF1初上陸ではない。1976年、1977年にも富士スピードウェイでF1が開催されている。
*第二、第三の韓国GPの可能性
実はこれは韓国だけの話ではなく、新しく始まったどこもグランプリでは似たような構図を持っています。たとえば1999年から開催されているマレーシアGPでは旗振り役になったのは当時の首相・マハティールだったりしますし、2014年からの開催がつい先日決定されたロシアGPでは実質支援したのは国営企業やプーチン首相の名前まであがっています。
また中国GPの有料観客数が3万2000人、トルコGPが3万6000人に終わるなど(ちなみに鈴鹿は09年21万人)、モータースポーツが根付いていないところで開催して空席だらけという現象は韓国だけのものではありません。
こうしたモータースポーツ文化が根付いてない新興国が行政の支援を得て、"F1グランプリを開催できる国"というブランドを求めて、高額の開催権料を払って開催するということがたびたびあります。それと対照的に、先進国では行政の支援には限界があるため(たとえばオーストラリアGPなどは赤字のため、税金の無駄遣いなどと度々批判されている)、長い伝統を誇るサーキット、モータースポーツが盛んな国から次々とグランプリが消滅、あるいは消滅の危機にあります(現在フランスGP、アメリカGPは行われず、またベルギーやカナダも1年休止をはさんでいる )。
こういった背景がある以上、第二、第三の韓国GPは生まれかねないともいえます。こうした文化よりもビジネスを重要視し、スポーツとしての不自然さを保ったまま今後もF1はやっていけるのか、大きな不安材料となっていくのではないでしょうか*4。
*4…個人的にはこうした仕組みはスポーツが資本主義のダイナミズムをうまく利用していって成長しているわけで、大変興味深いし面白いと思っていたりしますがw
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