しつこく、PCの自動更新のポップアップが出るので、クリックしてみたらWindowsXP SP3でした。…今更そんなもの出てるんだ…当初はVista発売後2年間までしか保障しないとか言ってたのに(笑)。
というわけで、最近ネットの知り合いにmixiが見つかりまくりのKeiです。mixiと分けている意味あんまり無くなって来た…。

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ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たちケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち
(2008/06/09)
速水健朗

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今ネットで話題の『ケータイ小説的』読んだ。話題って言っても、東浩紀が推薦しているのを見ただけだけど(笑)。
それにしても、速水さんの文章読みやすいですね。ジャーナリストだからでしょうが、人文系の学者特有のまどろっこしい言い方がなくて、読みやすい(笑)。

*概要
簡単に概要をまとめると
第1章はケータイ小説の起源を浜崎あゆみに見出す。尾崎的な反抗から浜崎的な内面対峙(トラウマ)へ。

第2章はケータイ小説の「リアルさ」を保障しているのはノンフィクションである(実話をもとにしている)、ということだけ、という事実。もちろん、ケータイ小説の大半はフィクションであるのはよく指摘されることですが、重要なのは「事実」として読者に受容されているということ。
そして、不良少女の変遷が語られる。ヤンキー→コギャル→再ヤンキー

第3章では現代ではヤンキーが東京への憧れのない世界、郊外で地域共同体を形成して生きていることが語られる。

第4章ではAC系とケータイ小説の関係が指摘される。

というわけで、簡単に言えば秀逸な現代ヤンキー論です。
2ちゃんねる的なラベリングで言ってしまえば、リア充とかオタクとかじゃなくて、DQNの話です。どうでもいいですが、ネットコミュニティでは若者をリア充/オタク・非モテの二項対立で語りがちだけど、ネットで言われているイメージを見る限りリア充≠ヤンキー(DQN)なので、ネット住人的にはヤンキーはアウトオブ眼中って感じなんでしょうねー。というか、リア充なんてオタクが生み出した理想の生き物じゃね?
正直、自分も全然若者論において地元ヤンキーは眼中になかったので反省。

でも、改めて考えたら僕は新興住宅地の小学校だし、中学は中高一貫だし、しかも学校が遠かったから、地元のつながりは疎遠だったし…というわけで、さっぱり地場ヤンキーとは縁のない人生を送ってきたせいで、読んでいても実感は今ひとつ。

*リアル系しか読めない若者

2章で出てきている赤木かん子氏によれば、「今の子供たちは『リアル系』しか読めない。ぎりぎり読める『空想系』が『ズッコケ』」と述べています。ちなみに、「リアル系」とは「リアリティのあるなしは関係なく、『事実』『ほんとうの話』を謳った作品」と定義されています。

…うーん、やっぱりピンと来ない。実は僕もバリバリのファンタジーってのは結構ダメで、ある程度のリアリティがないとダメな人なんですが(だからSFはOK)、そういう問題でもないらしい。
ネット界で言えば、『電車男』がこの作品にくるわけですが、僕自身『電車男』のまとめスレなんて読んだことすらない。ただ、『電車男』に限らず2ちゃんねるのスレ(特にVIP)は、この系に近いのかもしれません。
実話だと思ってケータイ小説を読んでいる女子高生って、VIPの「ちょっと俺の話を聞いてくれ」みたいなスレを読んでいるのと感覚的にはかわらないのかもしれません。

ただ、それが今の若者の現実だとするならば、「文学」はおろか「作品」「フィクション」っていうものが成立するのは相当厳しいですね。
まあ、古い芸人とかが最近の芸能人を称して、「最近の芸能人は芸が出来なくて、自分自身をさらして勝負している。そして、そのキャラが飽きられたら捨てられている。その繰り返し」とか言っているのを見たことがありますが、それに近い状況かもしれません。あー、麒麟の田村ね
「フィクション」であることを受け入れないなら、「リアルさ」を調達するために作家一人に対して、作品は一つしか出来ないわけで、実際『Deep Love』のYoshiが書いた二作目は売れなかったらしい。『恋空』の作者も、他の作品は『恋空』の関連作品である『君空』しか書いてないですしね。
昔から、「どんな人でも一つは小説は書ける」っていう名フレーズがありますが、まさにそんな状態なのかもしれません。

…なので、クリエイターになるなら残っている道はオタク路線だけなのかもしれません。オタク作品は欲望という原動力があるから、フィクションを作り受容できるのな…?

*ファスト風土の物語

この本のp.156に地域別の売り上げ統計が載っているのですが、見てびっくりしました。このグラフを信じるならば、今や、文芸書が売れるのは首都圏だけで、逆に首都圏ではケータイ小説は驚くほど売れてない。この統計ではケータイ小説の東京都の売り上げを、愛知県、兵庫県、福岡県、北海道が上回っています。

ケータイ小説が売れているのは、地方のTSUTAYAとかそのあたりみたいですね。実際、ケータイ小説の多くはファスト風土化された地方が舞台になっていて、さらに言えば地域の固有名詞などはほとんど出てこない。
そういった素地で売れているみたいですが…、ますます意外。

これは余談ですが、文学作品を書く上で地方出身っては意外と有利で、何でかというと上京小説が書けてしまうから。古くは『三四郎』とか。最近では佐藤友哉も古臭く上京小説書いてましたねー(『世界の終わりの終わり』)。

実際、佐藤友哉を見ていても、明らかに北海道出身ってのは創作上の糧になっていて、佐藤友哉の代表作「鏡家サーガ」は「こんなTSUTAYAしかない田舎なんていやだ、東京いきてー!」とか思っていた佐藤友哉の高校時代が見え透けます(笑)。ルサンチマンやコンプレックスは文学書く上で大事でしょうし。…でも、評論家になるには地方出身っては不利な気がする…。

で、佐藤友哉(←オタク代表)がそんなことを考えている間に、確実にファスト風土の中で地域共同体を作って、生きていっている人たちがいる。そして、そういう人たちに『恋空』は受けている…のかなぁ…。
何度も繰り返すようですが、僕自身地域共同体なるものを忌み嫌っていたので(笑)、実感がさっぱりありません。ゲゼルシャフト万歳だぜ!(←カタカナを使ってみたかっただけ)

*AC系

あと、前から気になっていたんですが、「AC系」という用語。これ、言い出したの宮台さん?だと思うんですが、「AC系」という用語がよくわからない。まあ、そのあたりの文脈を押さえてないからでしょうが…。
そりゃ、「アダルト・チルドレン」の意味ぐらいは辞書ひけば載ってますが、明らかに「AC系」っていう用語は狭義の「アダルト・チルドレン」の意味からははるかに拡散しているし、その原義的な意味「親がアルコール依存症で〜」に引っ張られるせいで、さっぱり理解出来ません。
とりあえず、「碇シンジ」系ってことで理解に僕の中ではなってますが…このあたりがこの本読んでいてもよくわからなかった。原義的には「浜崎あゆみ」系といった方が近いのかもしれませんが…。
宮台真司とか知らない人はもっとわからない気がするんですが…。

「やさしい関係」=「他人と積極的に関わることで自分が傷つけられてしまうかもしれないことを危惧する《やさしさ》」(大平健『やさしさの精神病理』)



やっぱり碇シンジじゃん(笑)。あれ、ゼロ年代は「決断主義」の時代じゃなかったの、宇野さん?

*届かない手紙

ちなみに、本書のラストは携帯やネットで常時つながることに疲れた若者たちが、『届かないかもしれない」ことを前提にしたメディアが持ち出されているのだ』で終わります(『恋空』自体、「届かない手紙」という形式をとっています)。
…もろ東浩紀ですが、これは当たっているでしょうね。
ニコ動が出てきた今、「つながりの社会性」(繋がることを重視したコミュニケーション)なんて論じるまでも無く当たり前のものになっているわけですが、「つながり」を欲望しつつも、「つながり」続けることでの緊張感への疲労。このアンビバレントな感情が今の若者の実態(ヤンキー、オタク問わず)なのでしょうか。

って、ちょっとのつもりで書き始めたら無駄に感想長くなってしまった!


コメント返信


>しーびーうぇっじさん

>レッドブルはエンジンよりもシャークフィンをマネされたことが大きいかと。

なんたって、シャークフィンですか。今や当たり前になりましたね…。スタビリティを向上させるとは言われてますが…。

>第4戦スペインGPでルノーが導入
>第6戦モナコGPでトロロッソが導入
>第9戦イギリスGPでフォースインディアが導入

そういわれれば、スペインGPからルノーは格段に速くなりましたし、モナコGPでは確かベッテルが入賞しましたね…まあ、モナコからSTR3(RB4)が投入されたので単純にシャークフィンのおかげかはわかりませんが…。

>第11戦ハンガリーGPでこの3チームがシャークフィンを導入します。

確かに、ハンガリーのフェラーリとトヨタは好調でしたし、バレンシアでも好調でしたね。…まあ、Hondaは…現状では何をやってもあんなものでしょう(笑)。

マクラーレンはテストはしたものの大差ないということで導入を見送った気がしますが、スパでどうなるか見たいですね。あとはBMWだけですかね、導入してないのは…。確かに、バレンシアのクビサは久々の表彰台でここのところ今ひとつですね…特にハイドフェルド…。

コメありがとうございます。
unocchi

これは買わざるを得ないですね、いろんな意味で。というわけで、ニヤニヤしながら生協で買ってきました(きめえw)。宮台さんの推薦がついているあたり、もう笑いが止まりませぬ。これはどうみてもポジショントーk(ry
しかし、生協に売ってるもんだなぁ…こんな本。『ケータイ小説的。』も入荷してくれないかなぁ…あとついでにコミケのカタログも
この後、飲み会だったり、読む本がたまっていたりするので、読むのは後回しになりそうですが。
せめて、『木更津キャッツアイ』ぐらいは見て読もう、うん。
しかし、この本がこれから開拓すべき読者層は、東浩紀なんて読んでいる人たちじゃなくて、もっと広い層でしょう。その意味でちょっと期待。ただねー、版元、早川だし、この表紙でしょう…「文芸評論」の棚の限界小説研究会とかの隣におかれてもねー、読者層は広がりそうもない…。
宮台さんのダヴィンチの連載を収録した本(タイトル忘れた)の隣ぐらいに置いてあげると面白くなるかもしれない。

ついでに今読んでいる本。

経済学という教養 増補 (ちくま文庫 い 66-1)経済学という教養 増補 (ちくま文庫 い 66-1)
(2008/07/09)
稲葉 振一郎

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人文系人間の人文系人間による人文系人間のための経済学入門。
これは面白い。
そもそも縦書きだったり(経済学の教科書は基本的に横書きが多い)、「序」でソーカル事件について触れていたり、ミクロ経済学の説明が10ページで終わってたり(絶対優位、比較優位の話しかしてない)、と結構経済学入門としてはぶっ飛んでいる本。ミクロの説明はそれだけなのに、その何倍ものページ数を幾種類ものケインジアンの説明に費やしてます(笑)。あれ、フリードマンは!?
人文系読者とならんで、経済について学びたいビジネスマン・経済経営系の学生に向けて書かれている、と稲葉さんはおっしゃってますが、後者の人は序章の「ソーカル事件云々」の話で読むのやめると思いますよ!?
でも、書き方が数式が出てこなかったりと大変人文チックなので、親しみやすく面白い。何故か、人文系の読者は近代経済学よりもマルクス経済学の方が詳しかったりするという変な現象があるので(笑)、人文系の読者には向いているのではないでしょうか。

…まだ読み終わってないけど。飲み会でも行ってきます。
なんか、今年はコミケ3日目に行く羽目になりそうです。せっかくなので、チキさんの冊子でもGETしたいと思ってます、はい。
ここのところ、ずっと忘れていたレビューです。まとめようと思って、もう読んだの一ヶ月前だぜ…。

ウェブ炎上―ネット群集の暴走と可能性 (ちくま新書 683)ウェブ炎上―ネット群集の暴走と可能性 (ちくま新書 683)
(2007/10)
荻上 チキ

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読んだのは随分前なのですが、個人的なメモに近いまとめ。ここに書いてあることは、人文系のネットユーザーには感覚的には当たり前なことも気もしますが、タームのまとめメモとして。

「インターネットの『生態』すなわち特徴は『可視化』と『つながり』という二つの概念を用いて考察すると、鮮やかに読み解くことができます」

サイバーカスケード…「サイバースペースにおいて各人が欲望のままに情報を獲得し、議論や対話を行っていった結果、特定の−−たいていは極端の−−言説パターン、行動パターンに集団として流れていく現象のことを指します」

確証バイアス…フィルタリング(情報のふるいわけ)の結果として「個人の先入観に基づいて他者を観察し、もともと持っていた考え方や偏見にとって都合のよい情報だけを集め、それにより自分の先入観を補強すること」

セレクティブメモリ…「確証バイアスの結果として、印象深い記憶のみが強調されること」

デイリー・ミー…「ネットは個人化されたメディア。数々の新聞、ラジオ、テレビ、すべてのメディアの中から『わたし』に合わせて要約を作ってくれる、『私のための新聞』」

エコーチェンバー…「音の反響効果を人工的に作り出す部屋や装置のこと。仮に小さなつぶやきであっても、自分に都合のよい言説を選択し、(似たような趣味を持つ)多くの人と同調しまうことでその声を大きくすることが出来る。仮にユーザ数が少なくても問題にならない」

「エコーチャンバーへの閉じこもりが、各ユーザのセレクティブメモリを強化し、結果としてサイバーカスケードを形成していく。」

クラスター化、蛸壺化、島宇宙化…「各エコチェンバーにとどまって閉鎖的になってしまったグループが無数に点在すし、それぞれが排他的な傾向を持ち、相互に反目しあう状態。」

集団分極化…「集団で討議を行う際、人が異なる意見へと歩み寄るよりは、もともと持ち合わせていた性質を強化する傾向にあり、討議を終えると人々は当初の意見の延長線上にある極論へとシフトしていく可能性が高くなること」

「私たちにとってトライブ(部族、趣味などの集団)を選択するということは、同時に別のトライブの住民と反目しあうことによって自己確認や世界観のメンテナンスを行うということを示しています」

「空間も時間も越えてすべてをつながていくウェブにおいては、異なる文脈へと接続しやすいために誤配が生じやすく、またそれが可視化されやすい。まったく異なる文脈同士を接続してしまうため「約束事」のあり方が変容し、その一方で誤配の痕跡がいつまでもウェブ上に残ってしまう」

ハイパーリアリティ…「『本当のリアリティ』なるものがなく、実態を伴わないイメージが自走していく状態。」

「立ち位置」のカスケードではなく、「争点のカスケード」が起こった…A対Bという対立が確定した時点で、AvsC、AvsDという選択肢は隠され、かつAvsBという対立にはAの勝利が内包されている。

モラルパニック…「実在する現象とは関係なく、特定の文化や行動パターン、属性などに対して、『社会が蝕まれている』『道徳や常識が崩壊している』『治安が悪化している』という誇張された認識が広がることにより、これら『危険な文化や人々』を排除し、社会や道徳を守ろうとして発生する集団行動」

カードスタッキング…「自らに都合のいい事柄を強調し、都合の悪い事柄を隠蔽するタイプのイカサマのこと」「数あるデータや事例から、自説を補強するものばかりを並べてリアリティを作り出すケースは日常的に見られる」

「アーキテクスチャによる管理という発想により法律の完全執行が可能になる。これまでの社会において法律が完全執行は行われたこと無い」「私刑」が可能。

「政治的な議論に興味ない者などの「祭り」が、政治的影響力を持つということは、これまでも起こってきたことですし、サイバーカスケードで『ネタがベタになる』ことに対する注意は必要です」

解決策:フィルタリングをGoogleだけに頼らず、ハブサイトなどを構築するなど。

----------引用終わり--------------------
サンスティーンなんて読まなくても、長年のネットユーザー感覚的に無意識的にわかっていることも多いんじゃないでしょうか?
僕的にも、まとめ、としてはすごく助かりましたが、「おおっ!」ってほどの驚きはない本でした(笑)。
もちろん、ウェブにはこういう傾向を含んでいて、それが何らかの問題として吹き上がり、正直不快な思いをすることもありますが、もうすでにウェブは切っても切り離せないぐらい人間なので、うまくウェブと付き合っていくしかないですね(←てきとーにまとめてみた感ありあり)。

それにしても、改めて「攻殻S.A.C.」は凄いよなぁ…とか改めて思った。

コメント返信
>tamakiさん
コメント返信遅れてすみません

>・東京大学の三四郎池(ただの池)

あー、受験生が絶対行ってはいけないって言われる池ですね(そっちか)。

>・雑司ヶ谷霊園(ただの墓場)
>・漱石山房跡地(ただの公園)

漱石ですか…僕の中で漱石の印象は薄いのか、その手はなかった、と思いましたが…きっと玉川上水と同じでただの墓場ですよね…。

>あと早稲田大学。大学めぐりかよ。

意外と大学めぐりは楽しいですよねー。早稲田は去年の大学祭行きました。
うちの大学は某萌えマンガで勝手に女子寮のモデルにされたりしているわけですが(それも何故寄りもよって人文棟)。

>私はここ最近旅行するなら文学関係がないと行く気ゼロなんで、一応そういう方の為に文学館もみつくろってあげてください。

文学館とかあったっけな…(おい)。探せば、結構あるんでしょうね。

>コメント欄に書き込む際見やすくなっていい感じですよ。

ありがとうございます。ほとんど、色換えですけど。
最近、記事書いてなさ過ぎですよね。はい、自覚してます。はてなの方も始めたらはてなの方も書くことなさすぎでした。もっと、新聞・雑誌読まねば…。
でも、僕が読んでる雑誌ってのが『週刊ベースボール』だったり『F1速報』だったり『ダ・ヴィンチ』だったりと趣味誌ばっかりするという(笑)。

大澤真幸『不可能性の時代』を読んでたらちょっと気になったのでメモ程度に。

東は、このような「データベース消費型」と大塚が見出した「物語消費型」との断絶を強調するが、私の考えでは、むしろ、データベース消費は、物語消費の延長上に現れるものである。「大きな物語」といえども、所詮は特定の物語である。(中略、ガンダムシリーズも一つの物語に過ぎない、みたいなことが書かれる)
「データベース」とはこのような「メタ物語的な領域」として機能する、超包括的な「物語」なのではないだろうか。あまりに包括的なコンテクストを取った時には、必然的に、その内部の諸要素の強い連関性は失われる。つまり、「メタ物語的な領域」と呼んだのは、包括的に過ぎて、物語的連関性を失った物語、物語としての外観を喪失してしまった物語なのではないか。だから、それは、要素の単なる集合、つまりデータベースとして現れるのである。
大澤真幸『不可能性の時代』p.98より引用


「物語消費」と「データベース消費」は説明面倒なのでググるなり、『動物化するポストモダン』を参照するなりしてください。
この真幸の意見は基本的には正しいと思う。実際、オタクじゃなくて大塚英志とかに全く触れたこと人が『動物化するポストモダン』読んでも、多分この二つの「消費形式」の違いを理解できないじゃないかと思う。実際、今のガンダムシリーズなんてガンダムデータベースからの組み合わせに過ぎないわけだし。「物語消費型」と「データベース消費型」の構造にそれほど大きな差異はないと思うし、延長線上で取っても問題ない。

でも、よくわからないのが、僕はこの二つの差異を「物語性」の希求というところだと思っていたんですよね。つまり、大澤真幸的に言えば「虚構の時代」的な「物語消費型」と、「虚構の時代の果て」(不可能性の時代?)としての「データベース消費型」という風に。

東浩紀の『動物化するポストモダン』に寄れば、大塚英志は『物語消費』が出てくる理由として「大きな物語の凋落とその補填」をあげてるんですよね。つまり、(リオタール的な)「大きな物語」のかわりとして、「ガンダムシリーズ」のような仮の「大きな物語」(仮の超越性、虚構の物語)が要求される、というのが僕の理解です。

ところが、ポストモダン世代(オタク第三世代)は最初からそのような「超越的な視点」自体を希求しない。だからこそ、「データベース」「大きな物語」を必要とする、というかそれでOK。言わば「物語性」(要素同士の強い連関)がなくても問題ない。
※「大きな非物語」という表現も『動ポ』に使ってあります

「大きな非物語」と「包括的に過ぎて、物語的連関性を失った物語、物語としての外観を喪失してしまった物語」と何か違うんでしょうかね?よくわかりません。

文脈的には東浩紀にケチをつけたい、みたいな文脈なのですが、少なくとも『動物化するポストモダン』時点での東浩紀と意見はほとんど同じだと思うんですが、何なんだ。『動ポ』読む限り東も「物語消費型」の延長で「データベース消費型」をとっているようにしか見えないんだが…。

まだ半分しか読んでないので、後半で種明かしされる…?
実際、「物語消費」と「データベース消費」のそのわずかな差こそが、「虚構の時代」と「不可能性の時代」(まだ全部読んでないのでよくわからないけど)を分かつ重要なところじゃないんでしょうか。だからこそ、東浩紀はその実際の"差"以上に強調しているんだと思うんですがね…。

多分、この本は全部読んだ後に何か書くことになるかも。
http://www.hirokiazuma.com/archives/000139.html渦状言論←CLANNADネタバレ有り

どうも、上記URLの東浩紀ブログで『CLANNAD』のネタバレを食らってしまったKeiです。実は『CLANNAD』まだクリアしておりません…どんだけ長いんだ…。アフターストーリー?まだまだ遠いです…とりあえずアニメ二期開始までは終わらせねば。
しっかし、娘の名前をギャルゲーから付ける親なんて本当にいるんですね。将来、その娘がPC使うようになりググったときに真相が…。

なんか数年振りに坂口安吾『堕落論』読んでみました。多分、前読んだ時は高2?ぐらい。本当に数年振りだなぁ…。
ちなみに、当時、僕が新潮文庫版『堕落論』を読んで最も印象に残ったのは「堕落論」じゃなくて、「教祖の文学」という小林秀雄論の「ぼんくらの目に見えやしないと小林がいうそんな月がいったいそんなステキな月か」というフレーズだったりします。いや、自分でも当時は一体どういうコンテクストで、どういう読み方していたんでしょうね…ハハハ。

戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。
堕落論


前読んだときの印象は「堕落せよ、堕落し続けよ」だったのですが、改めて読むと(真の)「主体」を確立せよ、「自己」を確立せよ、という意味に見えてきた(笑)。

『思想地図』の斉藤哲也氏は「坂口がいう『健全なる動議』から堕落する人間とは、社会的秩序の維持に関心を向けず、もっぱら欲望のままに生きる動物的主体と言い換えてさしつかえなかろう」と言っているんですが、ちょっと引っかかるような気もするけど、東浩紀のいう「動物的主体を確立せよ」ということになるのかな…。
とりあえず、外発的な主体確立なんてダメだろ、と言っていることだけはわかるんですけどね(笑)。
東浩紀の「動物化」の概念をちゃんと理解しなきゃなぁ…コジェーヴを読め、ってことか?

結局、人間余計なことを考えずにさ、思うがままに生きればいいじゃん、ってことか(笑)。
でも、頭のいい高校生が『堕落論』と浅田彰あたり読んだら、ものすごく影響受けそうだなぁ…ホントに。
高校生の読書感想文に『堕落論』と浅田彰の『構造と力』『逃走論』を指定したら、日本と言う国はとんでもない国(多分、悪い方向に・笑)になるんじゃないだろうか…。
  
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