このブログで初めてのアニメ評です。
いや、別に「K髪屋」のテリトリーを犯そうとかいう意図があるわけではないですよ?(内輪ネタスマン)
つーか、これアニメなのか?という疑問はありますが(笑)。そこも含めて感想。
閉塞化したアニメ表現の打開策が徹底したリアリズム…これが解答なのか?ええと、仕方なく上にはDVDのパッケージ画像を持ってきましたが、当然ながらDVDなんて買っておりません。YouTube万歳。これをようつべと読める人が信じられない、いやキーボードの通りだけど。
押井守の代表作二編。「うる星やつら」まで見る気はしないから、これで押井とはバイバイかな。もちろん、この作品テーマは割りと面白いところで、僕も大いに興味のあるところなんですが、生物学を学んで無い僕がどうこういったところでどうしようもないので、色々言うのはほとんど無理かと。
まあ、一応語っておくと「自己/他者」「生物/無生物」の境界が曖昧であるというのは最近流行りっぽいですが、この生物学が人文科学に対して突きつけてきた科学的事実に対する対処の仕方の違いが大いに気になります。
以下、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』『新世紀エヴァンゲリオン劇場版』『攻殻機動隊』『イノセンス』の核心部分にふれています。未読の方はご注意を。ネタバレが気にならない方はどうぞ・生物としての問題
『エヴァ』において「自己/他者」を絶対恐怖領域(ATフィールド)と呼称し、劇場版においてATフィールドの溶解していったものの最終的にはシンジはATフィールドの再構成を願ったわけです。また「生物/無生物」の境界には「魂」という謎の概念を用いて区別をしてきました。こういったところに従来の人文科学と折り合いを付けよう、というか見ように見れば宗教に頼ろうという印象すら受けます(特に"魂"という概念)。そこが『エヴァ』の限界なのかもしれない。
それに対し、「攻殻」は何の区別もそこに用いようとしていない。作中においてドーキンスっぽいことを言ってたし、多分「攻殻」の考えもそれに近い考え方で作られていると思うんですね。ただ、その境界を曖昧なまま放って置かれているような感があるんですよね…正直。これをどう解釈すべきか?
ここで出てきて貰うのがP.K.ディックの名作『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』。この作品だとアンドロイドを探し出して射殺する係りの警察官がアンドロイドに恋をしてしまう(微妙に笑えない)。で、アンドロイドと人間の差に悩む(しかも明確な判定法を持ち得ながら)というのが、この小説なんですが、この小説はアンドロイドに徐々に人間世界を支配していきそうな構図が見えたところで終わります。
つまり、これの助けを借りて「攻殻」を読むならば、「人/アンドロイドだかサイボーグだか」の境界を曖昧にしていけば、このまま支配関係が逆転しかねない、ということを逆説的に言いたいのかなという感じはします。そうすると「イノセンス」で人形が人を殺すという図式が出てきたのも当然かな、と思います。ただなあ、僕はこの単純な構図はおかしいのではないか、と色々思ったりもするのですがこれ以上はまとまらないのでここまでにしておきます。
・アニメ表現技法
で、話を変えて、アニメとしての表現技法の問題。
この「攻殻」を見て一番驚いたのは徹底したリアリズムを貫いていることなんですね。確か大塚英志だったと思うのですが、アニメは記号でできている、という風に主張している人がいました。つまり、ミッキーががけから落ちる、なぜか這い上がってきたときには包帯が貼られていて、次のシーンには包帯が取れている。つまり、「包帯」の記号で「怪我をした」「いたかった」というのを表現しているわけですね。これが大塚の言いたい事です。「お目目ぱっちり」=「かわいい」と感じる等の図式もこの記号の中に含めていいかと思います(キラ・ヤマト、格好いいというより可愛いよね〜って、方向性が違うし)。
じつはそんなことを言い出したら、演劇だろうと映画だろうと何でも同じということになるのですが*1、アニメはその特質上、どうしても「記号」の示す領域が増えてしまうわけですね。でも、アニメが勧善懲悪的な簡単なアニメだったらそんなに問題は起きなかったわけです。でも、アニメが伝えたい事が複雑化するとより複雑な記号体系が必要となり、その複雑な記号体系を了承できる人しか楽しめなくなる、という事態が発生するわけです。その事態に対して、1995年に出てきた二つのアニメは全く別の解決策を提示してきました。「エヴァ」はその記号体系を忠実に守ったため*2、最後崩壊して、文字や言葉で伝えざるおえなくなった。それに対して、押井はリアリズムでこの事態を乗り越えようとした。ここに二つの作品に不思議な差がでてくるわけですね。うーん、興味深いですな。
*1…俳優が考えているような動作をするシーンにおいて、俳優が本当にその事について考えているのではなく、「考えている」という判断をしているのは観客であるということ。つまり「こういう動作」をすれば観客は「俳優はこういうことをやっているんだ」ということを了解する)。
*2…大塚は記号の体系で構成されるアニメに身体性を持ち込んだと主張。最も、僕は「攻殻」との比較においては、エヴァの方が圧倒的に記号的だと思うので、大塚の意見は無視。
「人間/非人間」との境界を守ろうとした「エヴァ」の方が実際の人間とかけ離れた記号を使い、その境界を曖昧にしたままにしたの「攻殻」の方が実際の人間の容姿に近いリアリズムの手法を用いた。ここに奇妙な逆転現象がおきているわけですね(最も逆転現象がおきているのは「エヴァ」だけ)。
・意味分からない。謎の東洋的モチーフ
この作品で奇妙なのは積極的に東洋の(それも主として中国の)モチーフが使われている事が上げられます。というか、謎の挿入歌がマジで不快感をもたらします。これは何なんでしょうね?
おそらく西洋の象徴たる「科学」「知」というものへのアンチテーゼとして存在しているのでしょうか。うーん、この表現はよくわからない。でも、おそらくこのモチーフがなかったらこの話は「メチャメチャカッコイイ話」になりかねなかった(『マルドゥック・スクランブル』みたいな)から、それを防ぎたかったんでしょうか。
謎です。しかし、宮崎アニメも近年積極的に日本的モチーフを導入してますけど、あれは何なんだろう。老人になって、懐古趣味が出てきたとしか思えないのだが…『未来少年コナン』や『天空の城ラピュタ』を作った人とは思えん。
・すごいな3D
『イノセンス』について。凄いですね。3DCGは。今度の「エヴァ」の新劇場版もこんな感じになるのかな?でも、前述の通り「エヴァ」は記号性の産物だと僕は思うので3Dにしたら失敗すると思うけどな…。
そんなわけで、津々浦々とアニメ評でした。多分、しばらくアニメ評はないのでご安心を。というか、そろそろ映画の方に切り替えたいな、と。