というわけで、昨日はアニメ版「のだめカンタービレ」最終話でした〜。ドラマ版と同じく国内編で終わりです。
まぁね、正直アニメ版色々と酷かったけど、原作の力に支えられて全体としては良かったというところじゃないですかね。本当にアニメ版「のだめ」は動かなかったよなぁ…。最終回も作画酷けりゃ、エンディングロールで事後譚をマンガ調で流すと言うせこわざで物語を終わらせるし、まぁアニメ版はビミョー…。

というわけで福岡人的ツッコミ。
博多駅から大川までタクシーでいくか!?

相当遠いぞ(笑)。ちなみに、大川の宣伝をしておくと、県境越えたらすぐに佐賀県という相当田舎にあります。「のだめ」では新幹線で行ってましたが、飛行機利用だと福岡空港の行くより、佐賀空港の方が絶対近い(笑)。

で、売って変わってエヴァ。というか、最近何だかんだ言ってよくエヴァをネタに出しているような…。
それはともかく、ヤフーのニュース欄に「ヱヴァ」の文字を見た時の違和感は何とも言えません。
というわけで、新劇場版主題歌が宇多田ヒカル。

そうかそうか、宇多田ヒカルもアニソン歌わないと食えなくなったのか、
と見るか、
エヴァも落ちぶれたなぁ、J-POPとタイアップしないといけなくなったのか。
と見るか(笑)。
どっちもイヤミな見方だなぁ(笑)。

どうやらネットの噂ではカヲル君が冒頭から出て来るらしいです。
あー、完全に池袋の方狙いですね?カヲルなんていらないからアスカ出せ…。

>双城さんへの返信

正直、双城さんとの間ですごい空回りしている感があるんですよね…。東、笠井往復書簡みたいな(笑)。双城さんの言いたい事はよくわかるんですけど、拙稿のコンテクストに当てはまらない、といいますか…。なので、かなり曖昧な返事に毎回なっているとは思います。
その空回り感を先に一応書いておこうと思います。
拙稿では大塚英志の「自然主義文学的リアリズム/マンガ・アニメ的リアリズム」という二項対立図式を前提に用いています。その上で新本格ミステリはマンガ・アニメ的リアリズムと同じ図式に立っている、ということを述べているんですよね…。
従来の文学を「自然主義文学的リアリズム」とまとめる事の乱暴さは双城さんならよくよく理解されていると思います。「自然主義文学的リアリズム/マンガ・アニメ的リアリズム」の"乱暴な"二項対立図式で見たとき、"社会派"と"新本格"はどういうカテゴライズになるか?と考えた時に、"社会派"は前者、"新本格"は後者というカテゴライズになるのではないか?、というのが本稿の出発点です(従って拙稿では勝手にミステリ的リアリズムという呼び名をつけています)。
「孤島」や「名探偵」が双城さんの言うとおり「コード」として利用されているのは今回の論争を通して重々承知しているつもりです。その点は考慮するべきでしたし、機会があればもう一度そのあたりも含めて書き直したいと思っています。
ただ、ここで問題としたいのは、「自然主義文学的リアリズム/マンガ・アニメ的リアリズム」「ツリーモデル/データベースモデル」の二項対立で考えたときに、それまでの60年代から87年まで一世を風靡した"社会派"と比較した時に、突如として「名探偵」「孤島」「密室」というある意味"非現実的"な「・・・」*1が使われ始めた。何故だろう?というのがここでの問いです。
それを双城さんは「(娯楽を目的とした)雰囲気作りの材料且つ伏線(論理のアクロバットの材料)」のためと言いますが、それではここでは特に答えになっていないと思います。
そのあたりが非常に空回りしている印象がありまして、毎回毎回曖昧な返事になっていたわけですが…。
何度も言っていますが、やはり観点の違いがあるように思います。
東浩紀の考えは表象文化論的とか社会学的の考え方に載っていて、一応拙稿もそれにのっかています。それに対して、双城さんの意見は文学的に捉えている。
それがどうもすれ違っているような気がしてならないんですよね…。勿論、合わせる努力はしてきたつもりですが。

*1…ええと覚えてますか?随分前にこういったものを表すものとして「・・・」を使ったのですが(笑)。ガジェットとかそんな感じに捉えてください。

今回の文章で双城さんの言う「コード」と「データベース」の違いはよくわかりました(と思います)。

そのあたり考慮に入れて、もう一度拙稿を書きなおす、ということで一つの解答としてみたいと思います。まぁ、7月は試験期間ですので、いつになるかは不明ですが(笑)。
あ、勿論協力者のところでクレジットを入れさせてもらいますよ(笑)。
ニコニコ動画がすさまじい事になってますね〜。

おい、著作権やばすぎだろ!とか前にブログで書いた気もしますが、ハルヒに「らき☆すた」の大量削除きましたね〜。犯人は京アニか角川か(笑)。

正直、MADまで消されているとは思わなかったなぁ…。YouTubeとMADムービーのおかげでどんだけハルヒの売り上げが増えたと思っているのか、と小一時間問い詰めたいです(笑)。

というわけで、本日のネタは著作権について。

いや、そりゃ法律的には著作権は守らなくちゃいけないし、ここでいくら反抗したところで法律が変わんなきゃ、特に意味もないんだけど(笑)。

まぁ、ここは人文科学的に"著作権"という概念に反抗してみようというコーナーです。要するに己のためにアンチ著作権を展開しようと(笑)。

著作物は著作者のもの。
という近代の前提があります。こういう考えがあるから、著作権というものが出来てきたわけですが。まぁ、マルクス君曰く「モノは作った途端、モノから疎外されるらしい」ですけど。でも、いいたい事自体はマルクスと変わらないかも。
でも、「著作物は著作者のもの」というのは違うよね?というのがここでのお話。例えば、平家物語を琵琶法師が歌ったりすることで、平家物語の著者(なんか正確にはわかってないんでしたっけ?)が使用料を要求する、なんていうシュールなシーンが考えられるか?という話です。本当にあったらなかなか笑える話です。
多分、当時の人はそもそも「著作物」が誰か(現代なら法人も含む)が作ったものという意識すらなかったのだと思います。「竹取物語」なんかだと、取材しているのは共同幻想ですしね。そもそも、近代以前において「著作物」が「著作者」のもの、という考え方がなかったと思います。「著作物」は文化の中から生み出されたものだし、その「著作物」は文化の中でフィードバックされていく。あえて近代風に「所有権」を主張するなら、みんなもの、というとこですかね。

それを如実に現したのは、2ch近辺では有名な「のまネコ」問題でしょう。あれを法律的に「パブリック・ドメイン」とかそんな言葉を使って、解釈しようとした人がいましたが、人文的に言わせて貰えば、そういう「著作権」という概念自体が西洋的な特殊な環境のもとで生まれた概念であって(ようするに普遍的な概念ではない)、そういう問題が起きるのは必然とも言えるわけです。

続いて、別のアプローチをしてみましょう。「著作物は著作者のもの」という前提があるとして、その「著作者」とは誰か?という話です。
そんなもの、「作者」に決まっているじゃん、とか突っ込んだあなた、ニコニコ動画を体験されることをオススメします。つまり何が言いたいのか。
「作り手/受け手」という二項対立の図式は成り立たないということです。マルクス君的に言うと「モノからは疎外される」という話です。
つまり、"ニコニコ動画"というのはまず動画の作り手がいます。でも、コメントを書き込む人は受け手でしょうか?

ニコニコ動画ではよくコメントも含めて"作品"になっていることがよくあります(コメントがないと全然つまんない"作品"なんて一杯ありますしね)。となると、コメントを書き込む側は"作り手"になりうるし、動画の"作り手"はそのコメントをみて"受け手"になりうる。
つまり、要約すると「作り手/受け手」が固定化されたような二項対立図式なんて成り立たない、という話です。「らき☆すた」に何で「白石みのる」が出て「WAWAWA」だの「にょろーん」だの言っていたか、というと「ハルヒ」で脇役の谷口を一部のネットユーザーが散々ネタに使ったから、あるいはちゅるやさんとかいう同人誌が出たからなわけです。

つまり、「作り手/受け手」の二項対立図式は成り立たない。「読者」や「視聴者」も「作り手」なのだ!という話です。どうでもいいですけど、web2.0なんかもこういう思想から生まれてきたものと思います(「ドコモに移転ゼロ」も「アキバ2.0」も関係ないよ?)。

上と関連する話ですが、またまた別のアプローチ。
僕たちはどう「作品」を「消費」するか?という話です。
そう言えば、この話経済学の先輩にしたら、僕が動画共有サイトとかばっかり使って全然金を使ってないから「消費してないじゃん!」とか突っ込まれましたが、勿論経済学的な狭義の「消費」じゃなくて、広義の「消費」の意味ですよ(笑)。
例えば、ある作品を読むor見るor聞く。動詞いくつも付けるのが面倒なので、あるアニメ作品としましょう。アニメ作品を見る、「そしてああ面白かったな」と思う。これが従来考えられてきた「消費」の仕方です。
でも、まぁ本当に好きな作品ならこれだけではすみませんよね?「物語」が全く余韻を残さずに終わる事は考えられませんから、「シンジくんはどっちが好きなんだろう」とか(いきなりエヴァ!?)、「ハルヒかわいいよハルヒ、もっとキョンも素直になれよ」とかまぁそんな感じの何らかの感想があるはずです(たまにホントに読み終わっても何の感慨も浮かばない小説もあったりもしますけどね・笑)。
その妄想が膨らむと、同人誌だのMADムービーだの二次創作小説とか作り出すわけですけど、こういった「創作」も一つのその作品の「消費」の形式ではないか?という話です。
ある意味、「作り手」が「受け手」の"消費の形"を縛ること自体、相当窮屈な感じすらします。というか、どんだけ偉いんだ「作り手」は!っていう話です。"消費の形式"は多様な形があっていい。
エヴァを見て、二次創作を作るのも「エヴァ」を"消費"している、という風に言えるわけです。

結論。
MAD削除するな!

↑わかりやすい自己中的結論(笑)。

さすがに本編削除するな、とは言わないけどさ…。というか、ニコニコは頑張っても所詮FLVだし、コメントをつけるor見るという形で新たな"消費の形式"を作っているわけだし、本当は本編も削除するのもビミョーだと思うんですけど…。
Stage6とかVeohとかそういうところを先に叩き潰してください。とても、お世話になっているので非常に言いづらいんですけど(笑)。

法律的には全然著作者が正しいんですけど、"著作権"という概念自体からもう少し考えて欲しいなぁ…と。正直、『らき☆すた』なんかニコニコ動画のおかげで、かなりCDの売り上げ上がったと思うのに…。

そう言えば、著作権死後70年に延ばすとか・・・・本当にやめて欲しいですよね。青空文庫が使えなくなるのはつらいですよ…、あれだけ貴重な価値のある資料があるのに。もっと、文化的にフィードバックする、とかそういう考えに至らないのかなぁ…。
どうも、「ひぐらしのく頃に」をブックオフで立ち読みしていたKeiです。
マンガ版みおんが何となく可愛いくなってる(笑)。アニメ版だとそんな感じしないんだけどなぁ…。原作の絵は…正直ビミョー。

どうでもいいですけど、『ひぐらしのく頃に』って何がどうしたいのか、個人的にわからないんですよね…。はっきり言って、宮台とかが見たら「歴史性を意識してなーい!」とか言って散々けなしそう(笑)。

昭和58年という時代設定をしながら、どう考えても携帯以外は、ほとんど現代の話だし。昔は良かった、的なオジサンっぽい発想で出来ているわけでもないし、何で昭和58年という時代設定にしたんだろうなぁ…。

それに加えて、やたらと毎エピソードの冒頭部分(笑)に出てくる「ヒナミザワ」万歳思想は何なんだろう…。いや、作者は想像ですけど、多分こういう田舎に住んだことなさそう…。なんか、発想がすごい都会的だし。田舎暮らしの面倒なところ(農業関係の共同作業とか)が全然描かれてないし、大体いくら分校でも20人いたら、分裂クラスになるだろ(笑)。正直、白川郷というモデルが普通の田舎じゃないよ、白川郷は色々とレアケースだろ、みたいな(笑)。

そもそも、圭一くんはやたらと「仲間」に何で拘るんだろうね…。いや、あんなど田舎で村八分にでもなろうものなら大変だけどさ(笑)。その割りには、みんな殺そうとするよなぁ…。というか、普通の人なら、どんなに喧嘩しても、普通は惨劇を回避できるよ(それでは物語にならない・笑)。
あ、ヒナミザワでは村八分になるか、殺しあうかという選択肢しかないのか。都会みたいに引きこもるとか、シカとするとかいう選択肢はないんだ〜、なるほど(勝手に納得する)。

どうでもいい、「連載ゲーム的リアリズムを検証するシリーズ第一弾「『ひぐらしのく頃に』考」でした。
おじさんがいいです(おじさんって富竹さんのことじゃないよ?)。あと、「嘘だっ!!」モードのレナが好きです。でも、グロシーンが楽しみなんで(えっ!?)、アニメ二期見ます。
ちなみに、「連載ゲーム的リアリズムを検証するシリーズ」第二弾は東浩紀先生も大注目の「Air」です。というか、「鳥の詩」が素晴らしすぎます。





嘘だっ!!


↑すみません、これがやりたかっただけです。本当はありません。

・コメントレス
みなさん、コメントありがとうございます。

双城さんへの新本格関連論争へのレスは下の方でまとめています。

>元ネタ

情報提供ありがとうございました。というか、ニコニコのせいでネタ画像、動画は慣れていたけど、久々にヒットしました。

>日本コナタヽ(=ω=.)ノ

…。

>有瀬さん

>ショコタンの答えが「第三新東京市」でした。

あう。
うわー、さすがしょこたん。和田アキ子に綾波レイのコスプレをさせるだけはあります。

>でも、それ見て爆笑しているのは僕だけでした(笑)。

エヴァでもやっぱりそんなものなのか。どうせならマニアックにしょこたんに第二新東京市とか答えて頂きたかったところですね(いや、マニアックすぎだから)。

>双城さん

>さすがは自称現代視覚文化研究会員ですね(ぉ

エヴァファンには常識です。

>とすると、そちらの某日本を代表する大学に通う学生は、皆さん「らき☆すた」の大ファンであると……。

皆さんかどうかはわかりません。たまたまチョココロネはこの大学では人気商品で、需要に供給が追いついていないだけなのかもしれません。
でも、論理的に一つだけ言える事があります。この写真を撮った人は、『らき☆すた』の第一話を見ているこという事です。

>そのオタク大国日本を代表する大学であると、そういうわけですか。

ああなるほど、この大学はオタク大国を代表するという意味で、日本を代表するという意味なんですね。それは気づきませんでしたねー(違。

・新本格ミステリ関連

前回のコメントの争点をまとめると、「コード」と「データベース」の展開の違い、ということになると思います(毎回まとめないと、段々わけがわからなくってくるので)。

いきなり最後からの引用で申し訳ありません。

>(つまり「論理のアクロバット」)が本格ミステリであり、その点が、読者の「模擬展開」に応えようと――合致させようと――データベースの参照に尽力するライトノベルとの違いと言えよう。)

これ読んだ時に、心の中で「ブラボー」と叫んでました(何でフランス語?)。
そう、それが"新本格ミステリ"と"ライトノベル"の違いなんだよ、よく言ってくれた、と心の中では言っております。

実際、双城さんの言いたい事はよくわかりますし、一つの分析としては間違えてはないと思います。

>しかし、現場は”孤島”であり、そこから読者たる私は、「犯人はこの島からでていけない。でていければ犯行は容易だが、でていけないのだからこの犯罪は不可能犯罪なのではないか。犯人が誰かなんてさっぱりわからない」という考えをもつにいたる(重要なのは、”孤島”というコードが登場してからここまで、未だ”孤島”の「展開」は果たされていない、ということ)。

「犯人はこの島からでていけない。でていければ犯行は容易だが、でていけないのだからこの犯罪は不可能犯罪なのではないか。犯人が誰かなんてさっぱりわからない」というのは"孤島"の展開ではないのでしょうか?
ある意味、"孤島"という場で殺人事件が起きる、という自体にデータベースの参照していると思います。(よくミステリファンも毒づいていますが)「こんなクローズドな環境で殺人を起こす奴はいるかよ」と普通は考えます。
しかし、そのクローズドな環境において、基本的に考えられない殺人、というストーリーを僕たちは受容している。それを支えているのが、ミステリデータベースを参照すると言う形での本文中の用語でいう"ミステリ的リアリズム"ではないか?というのが僕の主張です。

つまり、"孤島"を論理のアクロバットのため"のみ"にあるとは考えません。勿論、そういった意味もあります(だから双城さんの意見は間違えてないと考えます)。
しかし、何故ここに来て"孤島"なのか、という非現実的なタームを持ち出したきたのか、という問題があります。
それなら、何らかの理由によって出入りが禁止されたビルの中でもいいじゃないか、という意見も当然出てきます(石持七海みたいな)。というよりも、社会派が当時流行していたことを考えれば、そっちの方が自然な感じすらします。
でも、実際綾辻やアリスで使われたクローズドサークルは、"孤島""嵐の山荘"などの古典的なものだったのか?
という答えとして、データベースを参照している、という解答ができるのではないでしょうか?

返事が遅れて申し訳ありません…。
サークルの合宿は箱根に決まりました。

箱根ってあれですよね、芦ノ湖が確か最近三つ目が出来たんですよね。で、地下には巨大な空間が広がっていて、箱根湯本にはリニアモータカーが走っていて、ビルは戦闘体型に移行すると収納されて、そしてそのビルから巨大なライフルとかが出てきて、たまに道路がぱっくり開いて、巨大な紫のカタマリとか赤のカタマリとかがでてきて、たしか環状七号線とかいうモノレールらしきものが走っていて、あっちこっちに緊急避難用のシェルターがあるんですよね?




…ごめんなさい。一つも現実の箱根の描写がありませんでした。というか、箱根という話を聞いて、最初に連想したのが第三新東京市でした、はい。何せ、僕は今年の箱根駅伝の裏でやっていたNHKの「メジャー」を見ていたような人間なので、僕の中での箱根のイメージはほとんどエヴァです。
そう言えば、若竹七海の小説で箱根にロマンスカーで行っていたような気が…(←どうでもいい)。

konata


友達が送ってきた写真。これ、ええと日本を代表する大学の生協らしいです…。

ごめんなさい、普段はネット用語の持つ内輪性が嫌いなので、ネットスラングは基本的には使わないのですが、使わせてください。

日本オワタ\(^o^)/

まともな日記は後で付け加える形で書きます。今回はこれだけをアップしたかっただけです。
「高度資本主義社会の中で生きていくために」とか偉そうなタイトルをつけているので、偉そうに思想と言う名の己の自己中な考えというものを表明して、こうなんかいろんな意味でいっちゃてる系の思想系ブログの真似ごとでもしようかな〜と思いまして、ちょっと連載モノを書いてみる事にしました。

巷の噂に寄るとライバルは双城さんの「俗人哲学」らしいです。

僕たちは"高度資本主義社会"と呼ばれる社会に生きている。まぁ、人のよっては再帰的近代だとか、ポストモダンだとか呼んだりするらしいですが、まぁそんな小難しそうな学術用語なんぞ使わんでよろし。

では"高度資本主義社会"とは何か?
簡単に言えば、マクドナルド的で、F1的で、ライブドア的なものである。例えば、F1は決して世界一のドライバーを決める戦いではない。正しくF1のGPを現すなら世界の有名自動車会社によるプロモーション大会となる。昨年のアロンソとミハエル・シューマッハの壮絶な戦いは、裏を返せばルノーvs.フェラーリであり(ついでに言えばミシュランvs.ブリヂストンだ!)、その二チーム以外で唯一間隙をついて優勝したのは世界に誇る日本の自動車会社・ホンダだ。これがF1の実態であり、世界一のドライバーを決める戦いではない。

グッドウィルドーム、福岡ソフトバンクホークス…純粋な娯楽として楽しんでいるスポーツすらこのように資本主義社会に絡め取られている。都心で昼飯を食べようと思うと、アメリカ資本のハンバーガーショップに行く。新聞を賑わすのは何で儲けているのかすらよくわからない企業も多い。

これが高度資本主義社会であり、これが嫌なら山奥で自給自足して過ごすしかない。新興宗教だかがコミューンか何か作って山奥で暮らしている、というのもよくある話だ(トリックの見過ぎ!?)。だが、多くの人たちはここから逃れられない。この中で生きて行くしかない…それが「高度資本主義社会の中で生きていく」という意味だ。

ここで注意していただきたいのは、決して「高度資本主義社会」を批判しているわけではない。批判することに何の意味もない。何故なら、昔のマルクス主義のような「〜べきだ」という力を僕たちは持ち得ない(というより、僕たちは普遍性という言葉をどこまで信じられるのだろうか?)。あるのは「〜である」だけであり、問題となるのはその「高度資本主義社会」の中で「どう生きていくか?」ということだ。

連載と書いたからには大した内容はないのですか次回も書きます。いつ終わるか、というか次回がいつかすらわかりません(笑)。

双城さんへの返信は明日か明後日あたりに返信できる見込みです(色々と勉強中なので・笑)。
というわけで、連日更新です!
目指せ"日記"と言う名前のついていない"日記"。

というわけで、大学に行く前にわざわざTSUTAYAよって買って来ましたよエヴァ11巻。さすが、腐ってもエヴァというか本屋でマンガコーナーの一角を占めてましたよ。正直、アニメ版よりカヲルとBL系に言ってないので(笑)、ややカヲルくんあたりの顛末が不自然な気もしますが…。まぁ、あんな奴どうでもいいんですけど。
そのあとのシンジがアスカの病室を訪問するシーンが全然変わっていて(映画版の冒頭)、大変マシになっていました(まぁ、マンガ版がマシかというと、ビミョーなところですけど、映画版よりは全然マシ。まぁ、文学的というよりも社会的規範とかそのへんの意味で見てという意味ですけど・笑)。

さあ、あと一年間はエヴァは新刊出ないわけですけど…。というか、角川の新刊案内を見ていたら森見登美彦がマンガ化するらしい…。正直、ないわー…。
乙一の『GOTH』のマンガ版は傑作でしたけど、何でもかんでも小説をマンガ化するな(笑)。どうせやるなら、谷崎潤一郎をやってくれ

そういえば、地味にYouTube日本語版が出来てますねー。最近、ニコニコしか見ないからすっかり僕の中では存在感なくしてましたけど(笑)。そのニコニコも有料会員制始めるという事で…、一瞬だけ有料会員になろうかなぁ、と思ったのはここだけの話。

まぁ、ニコニコなんて見ているとホント無意味なコミュニケーションをしているなぁ、というかマクルーハン(だっけ?)のいう通りコミュニケーションが主体性を持っているなぁ、ということを実感できる(笑)。

コメント返信

>有瀬さん

>こなたバージョンとかもありましたよね。前にはハルヒのとか。

ありましたねー。しかし、トレンドマイクロのサイトにかがみがのるとは(笑)。

>>この特報映像第二弾の最後に出てくる絵に、どうみてもアスカがいないんですけど?
>わーい。

「わーい」ですか…。
いやー、エヴァンゲリオンにはアスカは必要ですよ!あの劇場版はアスカなしには出来なかったでしすし!!(←とマジメに抗弁してみる)
どうでもいいですけど、貞本さんってどうみてもレイ派ですよね〜。つーか、そろそろアスカ復活させてください…貞本さま。

双城さんへの返信は長くなりそうなので、別枠で後日に。

お二人ともコメントありがとうございました。
http://www.trendmicro.co.jp/vinfo/virusencyclo/default5.asp?VName=WORM%5FHARADONG%2EAL

↑一瞬、このウイルスにマジで感染した〜い、と思った人絶対ダメ人間です。
いや、僕の事ではないですよ!?

F1アメリカGP、琢磨クラッシュで楽しみ半減、次のグランプリも10グリッド降格ペナルティで次も楽しみ半減。去年みたいに、琢磨が最下位を争っていると諦めもつきますが、今年みたいにいい線言っていると、アクシデントがすごい残念に思える…。

いや、でもハミルトン速いな〜。というか、アロンソも定番の二位8ポイント獲得作戦に乗り出したみたいで、つまらないGPだったのも確かですか(前のカナダGP荒れすぎたわけですが・笑)。しかし、アロンソ、レース後目が据わっていたもんな〜。さすがに今回ばかりは「ハミルトンはラッキーだった」とは言えないし。しかし、ハミルトンこけないなぁ…。安定感では定評のあるアロンソですら、カナダではこけたのに。恐るべきルーキー、あまりにも凄すぎて、逆に未来が心配です(笑)。

というか、来年アロンソとハミルトンのカーナンバーが入れ替わっている、という可能性も出てきたわけで…。恐るべき新人です。

で、全然話は打って変わって「エヴァ新劇場版」の話。
http://eva.yahoo.co.jp/gekijou/index.html#movie

この特報映像第二弾の最後に出てくる絵に、どうみてもアスカがいないんですけど?
まあ、新劇場版がどれぐらい従来の話に則るのかはわかりませんが、ほとんどストーリーが同じだとすれば多分6話(ヤシマ作戦)までの話になるわけで、そうするとアスカは出てこない…、というのは納得いくんですが、何でカヲルくんがいるわけ!?
いやー、正直「ラブ&ポップ」なんて村上龍の小説の実写版をとっていたような監督に才能が残っていると思えないし、中身は期待できないから、唯一の楽しみがみやむーのアスカヴォイスだったわけですけど、それもないなら別に行く意味はないわけで…。

ああ〜、もうどうでもいいや。

というわけで、今更『ヴェニスの商人』読んでます。最近、シェイクスピア意外と読んでね〜、ということに気づいて慌てて片付けてます。というか、普通に面白い(笑)。シェイクスピア片付け終わったら、ディケンズにでも行こうかな〜、ってイギリス文学ばっかり読んでて大丈夫なのか、国文。
いやー、土日に何もしませんでした…。今週はホントだるかったし、まぁ休息ということで。本当は土曜日に水道橋に行くどうでもいい用事があったのですが、「五月病ならぬ六月病で欠席します」というメールを送って本当にさぼって(これで夏風邪ひいても欠席できなくなった)、本当に何もしませんでしたよ〜。バイトもないし。こんな楽な土日も久々感が…って、一週間前まで毎日日曜日でした。反省。

六月末までに某勉強系サークルの原稿を書かなければならなかったのを思い出す。なんかだるいなぁ…。仮タイトルは『文学と現代社会をめぐる一考察』とかいうものです。もともとは全然関係ない事を書く予定だったのですが、笠井・東の往復書簡『動物化する世界の中で』がいろんな意味で衝撃的だったので、急遽変更して文学ネタで書くことにしました。
いやー、でもこの本紹介の時にも書きましたけど、この本の中でかわされている議論は「単なるゴミ」(笠井潔)だけど、この決裂の仕方は実に衝撃的でしたからねぇ…。結構、議論を始める肴にはもってこいだと思います。気が向いたら、こっちにアップもするかもしれませんが、ミス研と違ってレベルを下げて書くものではないので、ある程度前提知識がないときついかもしれません。

でも、『動物化する世界の中で』の中で一番衝撃的だったのは笠井潔が「AIR」をやっていたことだったりもするんですが(笑)。いやー、このおじさん『マリ見て』を読んでいたり、誰も頼んでないのに『GUNSLINGER GIRL』について批評していたりと、びっくりな事をやってのける人です。
東浩紀曰く1960年代生まれのオタクが「第一世代」(ヤマト世代)、1970年代生まれのオタクが「第二世代」(ガンダム世代)、1970年代終盤から1980年代生まれのオタクを「第三世代」(エヴァ世代)と呼ぶらしいです。この分類に1950年代生まれのオタクが反発したとか、何とかで…、結局「第ゼロ世代」と呼んでいるとかいないとか。

で、当の笠井潔は1948年生まれですからね…。50代後半になって美少女ゲームとは、なかなか変なおじさんです。いくら、最近のミステリ業界の動向をふまえたとしてもなぁ…。そういえば、鈴木謙介もギャルゲーをやっているとかいないとか。

追記:
そういえば、佐藤友哉がテレビ出演したとかいう話。
ブログ検索で「佐藤友哉」と入れて、一般人の反応見てみたいなぁ、と思ったら反応しているのは「佐藤友哉がテレビ出てたよ〜」的な文学系のブログばっかりだった(笑)。一般人にはやっぱり無縁の人のようです。

というわけで、コメント返信。コメント返信というよりも、議論と化してますが(笑)。毎度、毎度お付き合いありがとうございます。

>双城さん


>また、先述したように、”孤島”であるが故に「絶対脱出不可能」を読者に思い込ませ、実は犯人だけは別の島ないし大陸との往復を繰り返しており、それによって犯行を可能ならしめていた、などという、これもまた「展開」への利用がなければ、”孤島”に娯楽性は生まれない。

それでは、「孤島」は雰囲気作りと呼ばずに、双城さんの言う論理のアクロバットに必要な材料ということになると思います。ミスリードなどに必要な"雰囲気づくり"という意味なのかもしれませんが…。
もちろん、「密室」や「孤島」はそれ自体は勿論双城さんの言う論理のアクロバットに使われるものですが、何故「現実性がない」と言われながら、「孤島」「密室」などのタームが「新本格」では使われたのか?
ある意味「孤島」「密室」が双城さんの言う「データベース」的に利用された側面もあると考えます。「単体」で機能する、ということへの考察は以下で↓

>ミステリ好きな人間なら、現実において”孤島”に行くことがあったとしたら興奮するでしょうが、それは孤島で繰り広げられる事件という「展開」を無条件に含めて考えているが故の興奮であって、孤島それ自体に対する興奮ではないわけです。

それを言い出すと「データベース」との違いがわからなくなると思うんですよね…。それ「単体」でエンターテインメントになるものを双城さんは「データベース」と定義していますが、データベースからの抽出であるからこそ、そのデータベースに内蔵されているキャラが持っているコンテクストをある程度ひきづると思います。
本文中でも引用しましたが長門有希の紹介文での「いわゆる無口無表情系キャラという奴」という文章から、過去のデータベースに蓄積されているキャラ、そしてそのキャラが見せた「展開」を想起するのでは?と思います。
つまり、僕は「長門有希」も「孤島」もそういった点では変わらないのでは?と考えています。
従って、たしかにその本のコンテクストにおいては「単体」で機能する"かも"しれませんが、それ以前のコンテクストも含めれば「単体」では機能しないと思います(要するに綾波と「エヴァ」、ホシノ・ルリと「ナデシコ」などの先行作品なしで、長門は、受容されたか?という話です←酷い簡略化・笑)。

>う〜ん。どうにも私は、やっぱり基本的な知識不足みたいで、情けない限りでKeiさんには申し訳ないです。

いえいえ、知識量はこっちが圧倒されまくりです…。手持ちのカードをフルに使っている感じです(笑)。ただ、二人の間の齟齬はやはりパースペクティブ(←何となく横文字にしてみた)の違いに終始しそう、というのが今の所の僕の印象です。
うへぇ…、どうしてこうも休み明けの授業ってだるいのかな…。十日間の休みって、大学生的には明けた後がつらい。

しかも、先月から携帯のプランを変えたら、携帯料金が8000円なんて出てて、あちゃーと思って確かに一時間ぐらいヨーカドーの前でどっかの誰かと喋っていたなぁ、と思ったりもしたけど、よく見ると携帯代があがった原因の一つはパケ代が2000円ぐらいあがっていて、ソフトバンクぬっ殺してやる!とか思ったり(以前はボーダフォンのパケット定額プラン、先月からはソフトバンクのパケット定額プラン)。
ボーダフォン時代から地味にパケット定額代があがっている、のがどう考えても、納得いかねぇ!

って、地味に関東甲信越地方梅雨入りですか。
あぁ、憂鬱な季節が来ましたね…。どっかのアニメの主人公のオタクではないので、深夜アニメの予約録画なんて全く関係ない生活を送っているために、非常に雨は憂鬱です。洗濯物をどうしろと…、誰か乾燥機と食器洗い機を僕に買ってください。こうやって、ますますひきこもりが増えるんだよな…

>双城さん
そんなわけで、返事が遅くなって申し訳ありません。なんか、今週は想定外にいろいろとやる事が舞い込みまして…。まぁ、実生活の関係で単にだるかったというのもあるんですが(笑)。

ええと、先に笠井&東対談の記事で触れましたが、思いっきり空回りした返答になりそうです。基本的に、双城さんの反論を読んでも前回の返信と特に意見が変わりませんでした。つまり、別次元の別概念(ただし、結果的に同一の現象をしめしてしまうかもしれない)ということです。前回、曖昧な書き方をしてしまいましたが、まったくの同一概念だとは考えていません。ただし、結果的に同じ現象をさしてしまうことはありえるとは思います。

○コードについて
>つまり「コード(ミステリコード)」とは、≪雰囲気作りの材料且つ伏線にも成り得る素材群≫のことを意味する。

その点に異議があるわけではありません。しかし、それは作品の中でどのようにコードが機能しているか、という分析だと思います。
しかし、拙稿で一つの問題にしたのは(と言っても明文化はしていませんが、拙稿が何となく社会学的なポジションに位置している事を理解した上で、という滅茶苦茶な前提に立ちますが)、「何故、非現実的な『・・・』を導入したのか?そして、社会派リアリズムにのっとった社会派が隆盛だった当時において読者たちは何故それを受容したか?」というところです。「・・・」とは例を上げるなら「名探偵」であり「孤島」であり、拙稿が言う「データベースからの抽出されたもの」です(本当は「コード」と言っても差し支えないと思ったのですが、双城さんが「コード」の使用法を限定しているので使わないことにします)。
おそらく、双城さんに言わせたら「『・・・』が論理の展開上、必要だから」ということになると思いますが、それはあくまでも作品において"必要"であったから、であって「何故、この時期に新本格が書かれ、受容されていったか?」という問いの答えにならないと思います。

その解答として、「近代/ポストモダン」と「『大きな物語』の凋落」による「データベース化」なりを拙稿においても前回においても書いたので繰り返しません。

作品分析という点でみれば双城さんの意見は正しいと思います。
しかし、僕たちがどのようにミステリを受容したか、を傍証としてあげておきます。双城さんは数年前(?)ぐらいでミステリのコミュニティで交わされていた「キャラ萌え」がどのように言われていたか覚えていますか?
「推理部分よりも登場人物に熱を上げること」に対して、ネガティブな意味で使われていた思います。これはライトノベル的な受容のされ方である事は薄々推測されます。しかし、それを批判している人たちも「密室」「孤島」などという非現実的な「・・・」を何の違和感もなく受け入れ、逆にそういった「・・・」が出てくる事さえ楽しんでいなかったか、と問いたいわけです。

まぁ、さすがに↑は極論ですが(笑)。「新本格」ムーブメントにそういう一面があったのは否定できないと思います(最も本格原理主義者は否定し続けるでしょうが…)。

あと一つ疑問ですが、双城さんも「コード」の利用の一つの目的を"雰囲気づくり"と言っていますが、これは双城さんの定義における「データベース」と重なるのではないでしょうか?
"密室"という「・・・」を使うことによって、エンターテインメントと直結しないのか?ということです。
例えば、双城さんがあげていました清涼院流水の作品における「密室」「殺人」は「エンターテインメント」に直結してないのでしょうか?清涼院流水作品において、論理のアクロバット(ここでいうコンテクストでいう論理のアクロバットはないですが、清涼院作品においては論理はとんでもない意味でアクロバットに展開します・笑)は存在しない、といった時点で双城さんの定義する「コード」は双城さんの定義する「コード」でなくなる、つまり単なる「・・・」になるのではないでしょうか?
従って、清涼院作品における"双城さんの言う"「コード」の"双城さんの言う"「データベース的利用」は矛盾ではないでしょうか?

○データベースについて
>では「データベース(オタクデータベース)」の特徴とは何か。
>それを参照して作るものというのは、「萌え」などの、その引用単体で作動する「エンターテインメント」なのではないかと思います。

それは大塚英志のいう「萌え」の定義では…?
東浩紀は大塚を援用して、"動物化"というのをあげたのだと思いますが…、そのあたりは色々と洞察が必要だと考えています(色々とこのあたりは考えがまとまっていないので、すみません)。
ただ、データベース化がエンターテインメントと直結するかは否定的です。東浩紀は「萌え」のようにエンターテインメントと直結することもありうるというニュアンスで使っていると思います(これも僕は個人的に否定的なのですが・笑)。
何故なら、「大きな物語」の崩壊後、「データベース・モデル」は考えられるモデル図式だからです。つまり、「物語」を作ろうとするとどうしても、「データベース」を参照せざるおえない(「大きな物語」が崩壊しているから)。そこに"エンターテインメント"という要素がどうして入るのかが、よくわかないのですが…。(このあたりはまだまだ考えていくつもりですが…)

○結論
実は今回はまだまだ書きたい事があったのですが、「東・笠井」往復書簡になるのをさけるため(お互い言いたい事を言って、議論が噛みあわない)、議論を噛みあわせる事を優先させました。

個人的に言わせて貰えば、「コード」と「データベース化」は並立しえるとは思います。双城さんの「コード」に関する分析は正しいとは思います。しかし、僕は「・・・」をデータベースからの抽出と見ますから(それがエンターテインメントと直結しているかは保留とします)、当然並立しえます。実際、双城さんの定義「≪雰囲気作りの材料且つ伏線にも成り得る素材群≫のことを意味する。」の「且つ」以前の前者が「データベース」からの抽出によるミステリ的リアリズムの確保(いわゆるデータベース化)、「且つ」以後の後者が双城さんの言う論理のアクロバットのための「コード」と僕は解釈します。

従って、並存していることが同次元の別概念でなる、という証拠にはならないと思います。"ミステリ的リアリズム"というのは、いわば読者がどれにリアリティを感じるかという、言わば社会学的な話になります。作品分析的である「コード」とはまったく同次元で語ることは不可能だと思います。

…正直、色々このあたりの事もまとめたいので、また論文を書きなおすかもしれません。有沢さんからも「精密版つくって欲しい」とつつかれましたし(笑)。
正直、金と時間を無駄にしたなという本のご紹介。それでも取り上げるのは、そこから読み取れるものがあると思うからなのですが…。

動物化する世界の中で―全共闘以降の日本、ポストモダン以降の批評 動物化する世界の中で―全共闘以降の日本、ポストモダン以降の批評
東 浩紀、笠井 潔 他 (2003/04)
集英社

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笠井潔はかつて『六枚のとんかつ』のことをゴミと読んだのは有名な話だが、あえて言わせて貰おう。この本はゴミだ。
正直、この本の中で読むべきものはほとんどない。前半部分のかみ合わない話の部分と、一番最後の東の独白ぐらい?後半部分は東の独白を除いて、ゴミだ。
はっきり言って、論争と言うレベルじゃない(笑)。後にわかってくるのですが、二人のこの往復書簡への向かう姿勢が桁違いで、最初からあまりかみ合わなかったのですが、東の訣別宣言でついに双方の悪口合戦に転落(笑)。ただ、最初から東は「こう書きたい」というのを書いていて、笠井の方が後から「こうするつもりだった」というのを書いてきているので、読者の目には東の判定勝ちのように見えますが…。

この原因は勿論世代間ギャップに片付けることは簡単でしょうが(僕も最初はそう思いました)、最後まで読むと「文学」の外部にいる東浩紀と「文学」の内部にいる笠井潔の差かなぁ…と。佐藤友哉の話したがったり、この対談のために「AIR」をやってのける(!)笠井は、どちらかというと「文学」の話をしたかったという気がします(最初から笠井、東が合意してそういう方向に振っていれば、この対談はきっと面白く興味深いものになったと思います)。つまり笠井にとっては「文学」がある意味「社会」とを繋ぐ接点だったわけで、「文学」を介して「社会」の話をしようとした。
でも、東浩紀は「社会」の中で「文学」を捉えようとした。だからこそ、「文学」や「批評」が「社会」に対して力を持ちえなくなっている事を議題にしようとした。でも、笠井はある意味それに気付かなかった、あるいは気付かないふりをした(ある意味、自己否定にもつながるからか?)。このあたりが双方の訣別宣言に繋がったような気がします。

双城さんへの返信は後日書く予定です。でも、正直この東と笠井の往復書簡と同じような体裁を示しそうで不安なんですよね…。
本日は午後7時に寝て、午前1時30分におきるという超変則的なスケジュールで今起きています(笑)。何のためにそうしたかというと、『らき☆すた』のためじゃなくて、F1カナダGPのため!

いやー、琢磨最高!6位だよ!6位!しかも、トヨタのラルフと去年のチャンピオン・アロンソをオーバーテイク!!

ピットストップさえミスらなければ、表彰台だったのに…と、アグリのピットストップの相次ぐミスには心の中であきれてましたが、ま、そのおかげでアロンソをオーバーテイクするという信じられないシーンが見れたので良かったかなと(笑)。

というか、夜中なのに一人で騒いでましたよ、はい。調度、能登で地震が起きたというテロップを差し置いて、実況と解説が騒いでましたからね(笑)。

しかし、今回のレース荒れすぎ。完走がわずか12台って…。セーフティカー4回投入って何?それレースかよ(笑)。おかげでレース前にはエンジンには負担がかかるんですよねー」と解説者が言っておきながら、エンジントラブルはゼロ。うーん、右京とことんあたらない…。クビサのクラッシュは心配でしたが、セーフティーカー導入中に一人クラッシュしているトゥルーリって…。

いやー、興奮冷めやらぬまま何か書いてみました。どう考えてもこの文書に意味はないよなぁ…。

とりあえず、琢磨くんおめでとう!

というか、フジ…レース後のアグリの映像写してくれ…。

追記:余りにも琢磨で興奮し過ぎて、すっかり忘れてた。ハミルトン初優勝おめでとう!なんか、これだけトラブルがおこる中で一人だけ知らん顔して、ポールトゥウイン。
しかし、フェラーリ大丈夫か!?フェラーリのいない表彰台なんて久々に見たわ。BMWも2位のハイドフェルドと、クラッシュで骨折のクビサで命運が別れてしまいましたし…。

追記2:アンソニーが入ってきてクルーが全く待機していなかったのはてっきりミスかと思っていたら、ビーバーと衝突したらしい(笑)。不運でした。
さあ、今日は『らき☆すた』の放映日!F1カナダGP!
思いっきり夜更かしになりそうな予感です。北米ラウンドは時差の関係で放送が深夜になるから嫌なんですよね…。PPはハミルトン、2番手がアロンソ。3番手にBMWのハイドフェルド。フェラーリがBMWに負けるとは…決勝が楽しみです。ちなみに、我らが佐藤琢磨は11番グリッド。ポイントはちょっと厳しいそう?またフィジケラがピットストップ作戦ミスってくれれば(笑)

ようやく、明日から大学が再開です。正直言ってだるいです(笑)。

>双城さんへのレス
→双城さんのコメントへのリンク

色々ありまして(メッセとか飲み会とか・笑)返信が遅れた事をここでお詫びします。

正直、僕も文芸批評も東の言うデータベース化もよく理解しているとも思えないので、事実誤認等がありましたら指摘してください。

先に結論から言わせていただきますが、コードとデータベースはある意味別次元の話ではないかと考えています。

端的に言わせて貰えば、東浩紀のポジショニングの問題だと思います。東浩紀はまず文芸評論家ではありません。一応専攻は表象文化論のようですが、しばしば社会学に近いポジションから批評を行っています。

データベース・モデルという概念は、近代的な「大きな物語」が生きていた時代に考えられてきたモデル(ツリー・モデル)の対比として、「大きな物語」が崩壊したポストモダンにおける作品の成立モデルとして出てきたわけです。こういう社会学的な見方が(あるいは表象文化的とも捉えることが可能かもしれませんが)前提としてあるわけです。

確かに、これはコードの多用という現象を現しているのかもしれません(そのあたりは色々考えてみなければならないとは思います)。しかし、コードの多用というだけでは全体を通して捉えるモデル図にはならないのではないでしょうか?(それでは一時期の作品の一つの特徴を捉えただけに過ぎません)
つまり、全体を捉えるモデル図としてデータベース・モデルというのが必要となり、その全体像から"データベース化"という現象を捉える、というポジションを東浩紀はおそらくとっているのだと思います。

つまり、個別の作品分析をベースとした文芸批評と、作品を社会の表象として捉える東の「データベース化」とでは視点の違いがあるのではないでしょうか?

従って、文芸批評のコンテクストか社会学的なコンテクストで使うかによって、このように用語が変わってくるものだと思います。

よって、「コード」と「データベース」を双城さんは比較されていましたが、そもそも比較可能な概念だとは思えません(もし可能であるとするならば、このように原点まで辿り着いた比較しか可能ではないと思います)。

一応、拙稿は正直そういうところを余り意識していなかったので(笑)、双城さんの指摘はある程度有効性を持つと考えています。

>Keiさんがつまずきなくファウスト組の参照しているデータベースを「オタクデータベース」である、と言っている点が、私には理解できませんでした。

データベース・モデルというのは元々「大きな物語」が崩壊した後、物語が生き残るための手段だと思います。つまり、データベース・モデルという図式自体はオタク特有のものではないと思います(オタク文化において顕著なだけで)。しかし、データベースというのはある程度共有されないと有効に機能しないわけです。ようは、オタク文化以外にもデータベース・モデルは存在しえる、つまりそれが「ミステリ・データベース」だと考えています。しかし、それは東が分析している「オタクデータベース」(東自身はこの用語を使っていませんが、東が分析しているデータベースです)へと移行したのが「ファウスト組」だと考えています。

う〜ん、回答になったでしょうか…?
最近、僕が興味ある現象はネットのナショナリズム化なんですよね…。
それで割合そのあたりの定評があるかな…ということで読んでみました。

嗤う日本の「ナショナリズム」 嗤う日本の「ナショナリズム」
北田 暁大 (2005/02)
日本放送出版協会

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読んでみると、意外なほどつまらない(笑)。というより、リアリティがないんですよね…。問題提起は2chで起きている現象なのですが、作品中で延々と続く1980年代のサブカルの話がついていけない(笑)。
東浩紀がこの本についてブログで「この本は1980年代文化論だ」と主張していましたが、僕達の世代から見ると全くその通り…。いや、今の2chに巣食うアイロニカル性にたどり着くための歴史的経緯を示したいというのは分かるんですけどね…少しは大学生の年代の読者の事を考えてくれよ…。
宮台とかも同様の印象を受けるんですが、「歴史的経緯が大事だ」とか言う根拠はわかるんですが、自分達の若い頃のサブカルをみんなも知っているものとしてバンバン出して平気な顔をしているのはやめていただきたい(笑)。
って、北田って意外と若いんですね…。1971年生まれは学者としてはかなり若いですよね。というか、あとがきに書いてあった「アニメイト」に笑ってしまった。北田アキヒロって意外にオタクじゃない(宮台も大澤マサチもオタク作品に詳しいような…、社会学者恐るべし・笑)?

それはともかく内容。
曰く、80年代にテレビはアイロニカルな「嗤い」というものを確立した。アイロニーの対概念は糸井重里的なユーモア。つまり、「8時だよ!全員集合」的なプロがお客さんに見せる番組ではなく、素人などを出してテレビに視聴者が突っ込む、つまりアイロニカルな"嗤い"が確立した。それは自らをアイロニカルな位置に置くことになる。ある意味、ベタへのコミットから逃れる事の出来るメタ的位置を獲得することになったわけです。
かれらはアイロニカルであるがゆえに、「テレビの映ったものはすべて番組になる」という命題を信じて疑わない。テレビのフレームワークに収まる事をよしとしない存在(千葉すず)を異端視し、感動の全体主義を貫徹しようとする。と述べています。メディアの演出に対する高度なリテラシーを持つが故に、お約束名形式を嘲笑するような態度、これを北田は「純粋テレビ的アイロニー」と呼んでいます。

これが2chのアイロニーのベースにある、と北田はいいます。当然、テレビから生まれたこういったアイロニカルな文化で育った人たちが今の2chねらーですから、こういうった資質を持っているわけですね。それはニコニコ動画なんかは非常に象徴的だと思います。動画にツッコミをいれるという形式は、コメントを投稿する僕たちはメタ的な立場にいるわけです。
その結果、どういう事が起こったか。このアイロニカルはマスメディア一般へも向けられることになったという北田は言っています。今の2chの朝日、TBSバッシングの元はここに由来する、と。
今の若者を、何かが伝えたい聞きたいからコミュニケーションしているのではない。コミュニケーションのためにコミュニケーションをしている、と北田はいいます。これは多くの人が指摘していることだとは思いますが…。例をあげるとするなら、ニコニコ動画で弾幕と呼ばれるものでしょうか。まさに複数同じ事を書きこむという無意味な!文字列なわけですから(笑)。
一万年と二千年前から愛してるううううううううううううう

北田は「ねらーにとってマスコミはコミュニケーションのためのツールに過ぎない」と言っています。例えば、朝日がまともなことを言っていたとしても、おそらく2chでは「朝日必死だなww」というコミュニケーションがされる。純化された形式主義者という言葉を北田は使っています。例えば、「きしめええええええええええええええええええええん」と書き込むことも所詮は形式主義に則った無意味な行為というわけです(ま、「僕たちは終わりなき日常」を生き続けなければらないので、そのコミュニケーションを必要としているわけですが・笑)。
その結果、「反思想としての思想」としてナショナリズムに辿り着く、と北田は述べていますが、正直これには個人的には納得できない。おそらく戦後民主主義へのアイロニカル的な立場として、ナショナリズムを選択したが、ナショナリズムへも(家族会へのバッシングなど)アイロニカル的立場をとる、と北田は主張していますが、僕はどうかな…と思います。だって、ナショナリズムにコミットしているだろ、っていう奴僕の回りにも何人かいますからね…。本当にナショナリズムへもアイロニカル的立場を持ちえてないと思います。ただ、いわゆるノンポリ(?)はナショナリズムへのアイロニカル立場を持ちえている…とも思えないしな…彼らはおそらく「嗤わないですからね」産経も朝日も(笑)。
それなら、北田が援用している宮台の「『終わりなき日常を生き』ていたはずの若者の少なくない数が、その無意味性に耐え切らず、日常を超越する過剰な「意味」へのショートサーキットをおこすようになったのではないか」という分析の方が説得力ありますね。まさにセカイ系ですから(笑)。

というのが、本書の2ch関連で語られていたことをまとめたものです。先ほどもいいましが、本書は1980年代文化論なので(笑)、ほとんど終盤部分のみの要約です。
正直、こういう評論関係のレビューは紹介すると言うよりも僕の中で理論を整理するという意味合いの方が強いので(笑)、割りと要約がメインになってしまいます。
しかし、どうなんでしょう…。アイロニカルに関する分析は見事だと思います。実際、僕も結構アイロニカルなポジションをとっていたりしますね(笑)。批判ばかりして、自分がコミットする思想がない、というよりアイロニカルに批判することにコミットしているの方が正しいか。どうも、高校の時の某友人の顔が浮かんできたりもするのですが…。自分のコミットしている!と宣言する思想は誰からも批判されないように小難しいこと(オランダだかフランスだかの哲学者)を言って、実際はアイロニカルにコミットしているという…ああ、名指しで批判したくなってきたからこの辺でやめます(笑)。
ただなぁ、ナショナリズムに関してはいまひとつ…。セカイ系との関係とかもよくわからなかったですね。

しかし、この本で一番面白いのは中のタイトルが書いてあるところにある写真。本当に"嗤"えます(笑)。本屋で見かけたら是非ともお手にとってご覧くださいませ。7ページです。本当は是非とも写真を載せたいところですが、著作権とか肖像権とか色々なものにひっかかりそうなのでやめときます(笑)。

追記
しかし、田中康夫『なんとなく、クリスタル』の再評価って最近の流行り何ですかね…。斉藤美奈子も同じような事を言っていたし、この本でも割合評価する意味合いで使ってあるんですよね…。ようやく、日本の知識人が江藤淳の水準においついたってことなのかな(笑)。
ようやくミステリ研の原稿が完成する。あーあ、疲れた。

「『新本格』はライトノベル的だ!」
http://ikeda10.hp.infoseek.co.jp/report/shinhonkaku.pdf

かなりケンカを売ったタイトルですが気にしない気にしない。要旨は東の言うデータベース理論が新本格にも適用できるのないか?というところから、佐藤友哉や西尾維新のところまで導くと言う無茶なのか当たり前なのかどっちかよくわからないけど、やってみたというところです。

このタイトル自体は全然正確な表現ではなくて、作中にも書いた通り「『新本格』はポストモダン的だ」とでもすべきなんでしょうが、ちょっと人目をひくためにこんなタイトルにしてみました。

というか、自分のホームページにpdfファイルをアップしようとしたらfc2の仕様で出来なかった(笑)。fc2規制厳しすぎ…。そう言えば、fc2って音楽もアップできなかったんだよね…。
仕方ないので昔のホームページのスペースに上げました。infoseek万歳!インフォシークも広告がもう少し小さかったら結構使えるんですけどね…。
haruhi


一昨日(というか昨日)はリア友と延々と『らき☆すた』について午前4時ぐらいまでメールし続けて、昨日(というか今日)は有瀬さんとこれまた延々と『らき☆すた』その他について午前5時ぐらいまでメッセで話続けて、これ客観的に見たらオタクって言うよね、というレベルまで達している気がして自己嫌悪に悩まされている今日この頃。さらに、今日二駅隣の本屋に行ったら、入り口の所に↑みたいな看板があるし…。

多分、せいぜいかがみレベル、いやかがみ以下ですよ。『フルメタ』ネタわからないし(笑)。こなたレベルに達しているのは双(以下略)とかで、全然セーフですよ、はい。

でも、『らき☆すた』が見れると言うのは相当オタクな証拠のような気がしますけどね。

というわけで、ミス研の原稿を書く羽目に…。今の所「新本格ミステリはライトノベル的である!」という挑発的なタイトルでケンカを売ろうかなと(笑)。

内容は今の所、東浩紀の言うデータベース化が新本格ミステリでも同じ事が言えるのではないか、ということをいろいろ論拠をあげて説明した後に、新本格第三世代というのは、作品の構造が変わったのではなく、ベースとなるデータベースが変わっただけではないか、ということをたらたらと述べようと思ってます。

完成したらHPの方にも上げる予定なので、叩くなる批判するなり無視するなり、どうぞ好き勝手にやってあげてください。

というわけで、このあたりで、また

追記:ミス研ではなくて、勉強系のサークルの方でこの休み中に書かなくてはならない原稿がもう一本できた(泣)。テーマは現代社会らしいです。こっちは余り考えてませんが、現代の日本のナショナリズム(J国化とか)について少し書こうかな…と思ってます。
というわけで、大学に潜入してきました。

ええと、本当は大学ははしかで休講なので、キャンパス立ち入り禁止なんですけどね(笑)。
ただ、うちの大学は正門を通らなくてもいける抜け道だらけなので、入り放題。建物の中も部室は廊下が外にあるので、これまた入り放題。
うちの大学はどうやってもロックアウトが出来ない仕組みになっております(笑)。

サークル(←本当はサークル活動も禁止)で大学祭の講演会は誰呼ぼうか、という話をしていたらまず名前が挙がったのが東浩紀。
いや東浩紀は無理じゃね、という話になり、何故かその次に挙がった名前(とういか僕があげたのですが)笠井潔。
なんか他にも石原慎太郎(無理)とか石破(笑)とかテキトーに名前をあげて言ったら大学祭担当に…。まじ、ないわー。

コメントレス
>有瀬さん
>それはそれは。ついに奥の手を出してきましたか。

いくらOperaのシェアが伸びないからって、bittorrentは奥の手ですよね…。Firefoxも拡張機能で開発中らしいですが、Operaはどうどうの標準搭載ですから(笑)。

>……い、いえ、Bittorentはいい子ですから合法なファイルも流れているらしいですよ?(手遅れ。)

もっともP2Pなんかでやり取りしなくても、Googleの傘下の会社がサーバ上で堂々と著作権違法ビデオを流している時代ですから(笑)。著作権を70年に延ばして「青空文庫」を潰している暇があるなら、そのあたりを取り締まって頂きたいものです。
でも本当に取り締まられたら困りますけどね。

>次世代はやはりFirefox、Sleipnir辺りが主流派なのではないかと思います。

何故Operaはシェアは伸びないんでしょうかね…。ネスケがベースのFirefoxやIEがベースのSleipnirよりも、シェアの関係でセキュリティは高いと思うのですが…。
Operaは急進的すぎるので、多分主流派のバックアップに回っているのでしょうか。独自規格でわが道を行くツンデレIEたんを監視しつつ、でもなかなか相手が動かないので、奥の手bittorrentを搭載してIEたんの出方を見ているところなのでしょうか。そこに、ふぉくす子が乱入し(以下略)。

>IEから乗り換えたユーザーでは、地味にFirefoxよりSleipnirが今や一番人気な気がします。やはり自分で拡張するのは面倒か――。

はい。自分で拡張するのが面倒なんですよね…、Firefoxは。正直、IEからのりかえた人は何を拡張すればいいのかがわかりにくいですし…。

>双城さん

>最近妙にリアルが忙しくて顔出しできない日々が続いておりますが

「はしかで休講」で想定外にヒマになった僕の時間を差し上げたいぐらいです(笑)。本当に本を読む以外することがありません。

>私はLunascapeユーザーです!

あう。(←西尾維新風に)
Sleipnirユーザは結構いますが、Lunascapeはレアですねー。まったくルナスたん(←国の名前みたい)の存在なんて気にかけていませんでした。
いやはや…、是非ともマイナーブラウザ連合で頑張っていただきたいものです。

お二人ともコメントありがとうございました。
ちなみに↓はfc2の仕様が変更になったのでついたものです。有瀬さん記念拍手ありがとうございました。
  
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