今更だけど、東と宇野常寛のAlive2を聞いた…というよりは今、聞いている(笑)。目と手が開いているので、ブログを書いてます。

色々と面白かった。何で僕が宇野をやたらと持ち上げた理由がわかった。はっきり言って、この人僕とメンタリティ似ているんですよ(笑)。

これは、(中略)人は時には傷つけあいながらも他者に向き合って生きていくしかないのだ、というシビアだが前向きな現実認知に基づいた結末だったと言える。しかし、『エヴァ』の子供たち(ファンのオタクたち)の大半は、この結論を受け入れることができなかった。

http://d.hatena.ne.jp/izumino/20070630/p1

この人さぁ(宇野)、多分エヴァの「気持ち悪い」が好きなんだよ。エヴァ大好きなんだよー、劇場版50回ぐらい見直しいて、「気持ち悪い」を受け入れる自分はいい!的な発想なんだよ、多分。正確に言うと、エヴァを否定するエヴァが好き正しいかな?オレもそうだもん(笑)。

だから、『ハルヒ』とか『AIR』が許せないんだよねー、多分。僕もそうだもん。というか、僕はそれはそれで面白いじゃん!気持ち悪いことは自覚しているけどまぁ、面白いからいいんじゃね?がオレ。「気持ち悪いだろ?」って言っているのが宇野。

だから、僕はこの分類で言えば『CLANNAD』派ですよ。「気持ち悪い」とかそういうことを横に置いといて、二次元で面白く楽しいことやろうぜ?という意味で『CLANNAD』派。だからアンチ『ef』派(笑)。東浩紀に「やばい」って言われる人(笑)。

というわけで、「気持ち悪い」を受け入れた上で、「でも楽しいからいいじゃん」的な『CLANNAD』派同人誌を誰か一緒に立ち上げませんか(笑)。
タイトルは『くら☆など』で(いわば『らき☆すた』徹底擁護派陣営でもあるわけです・笑)、ライバルは『PLANET』で、キャッチコピーは「『エヴァ』と『CLANNAD』の融合」(笑)。ぶっちゃけ、社会はどうでもいい(笑)。そして、「徹底した脱社会化」をテーマに、目標は宮台に「こいつらは社会から排除せよ」って言われること(笑)。で、表紙は萌え絵で、裏表紙はアスカが気持ち悪いとか言っているやつ(笑)。そういう背景を持っている上なんだよー的な意味。で、中身は萌え絵の挿絵をありながら、メタメタにエヴァエヴァにいくような作品とか評論。
冗談なのに、やたらと妄想が止まらない(笑)。

あと、「新現実」ってみんな手に入らなかったんだ…うちが東京都の山奥にあるからかと思ってた(笑)。仲俣暁生がNGはつらいなぁ…。
宇野はもうちょっと真面目にやるべきだと思うんだ…明らかにブログ論壇に置いては注目を集めるには東批判は有効なんだけど、東と同レベルにはなれない。視野が違いすぎるから。矢作論でもなんでもいいから、もうちょっと本気を出したら、またフィールドが変わると思うんだけどなぁ。
余談だけど、高橋源一郎『ニッポンの小説』は面白いけど、ブログには書けないというのは驚いた(真面目に『ニッポンの小説』は面白い・笑)。
東はプロフェッショナルだなぁ…もっと天然かと思ってたのに。やっぱり頭はいいよなぁ…さすがだ。宮台は「あえて」を「あえて」言っているようにしか見えるけど、東は徹底的に「あえて」をやっていたわけだ…。


今話題の「はてなようせい」について、「お前らなぁ」とか書こうと思っていたら、先に書かれてしまいました(笑)。
とりあえず自重した方が…まぁ、面白いからいいけど(え?)。
僕がチャレンジやってた頃にはこんな奴いなかったぞ!?クマとかカニがいた気がする。最も、チャレンジなんてマンガとアカペン先生しかやってなかったけど(笑)。

ついでなので、ニコニコ動画をはりつける。



なにこの凄さ。しかも、古泉はガチホモじゃなかったのか!(そっちかよ)。いいなぁ、絵が書ける人は。



相変わらずだけど、新海誠すげえええ。でも、個人的にはアニメ版のOPとりたいなぁ…。新海の方が手間はかかっているんだろうけど。



今更だけど、そういえば貼ってなかった自作MAD。うちのPC性能で動画編集するのはストレスしかたまらないのでもうやめます(笑)。

磯は恩田陸原作『六番目の小夜子』を宮村優子脚本でドラマ化したものを観て小説版に宮村を指名したとされ、本編のストーリーにも「伝説」「転校生」「ふたり」「鍵」と作品『六番目の小夜子』の影響を受けているような要素が見られる

電脳コイルより引用

「電脳コイル」って「六番目の小夜子」のオマージュだったのか…「コイル」は小学校で、「ロクサヨ」は高校(ドラマは中学)だったので全然気づかなかった。「電脳コイル」の感想のときに何気なく恩田陸の話を書きましたが、あながち関係なくも無かったと…。
宮村優子ってドラマ版の脚本の人なのか…なるほどね…(アスカじゃないですよ!?)。というか、全然リンク先で指摘されるまで、気づかなかったけど、「電脳コイル」の放送枠って昔「六番目の小夜子」やっていた放送枠ですね…言われてみれば。
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(2001/01)
恩田 陸

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『六番目の小夜子』は中学時代にドラマを見て、原作も読んで個人的に色々と思い入れがあったりする作品だったりします。その頃はあんまり純文学は読まなかったし。
何度、恩田陸っぽい小説を書こうとして失敗したことか(笑)。そうこうしているうちに辻村深月がデビューして、見事にやりたいことをやられてしまったという。まぁ、素人中学生ごときが何張り合ってるんだ、って話ですが。



コメント返信
>職業ニートさん

>読みましたが、そんなにすごい事は言ってないと思います。むしろ西尾維新とかの評価で話がだいぶ変わる気がする。

情報提供ありがとうございます。なるほど、いーちゃんかぁ、鍵を握るのは(笑)。

>これはなんか『動ポ2』読んでないともうどうしようもない感じになってきました…。(てか手遅れw)

『動ポ2』は個人的に面白かったけど、『動ポ』よりは文学的作品論的ですから、人の興味領域による感じはしますが。まぁ、東のサブカル論としては(多分)集大成ですしね…。
職業ニートさんのとこ見て気づいたんですが、2chの東スレに東浩紀が降臨したらしい。

http://d.hatena.ne.jp/sirouto2/20080123/p1
萌え理論ブログより

つい読んでて何箇所か爆笑してしまった(笑)。

>あるいは今アイポッド(?)に入れている音楽を教えていただけませんか。

いま聞いているのは、ネタではなくリトルバスターズの主題歌。


さすが東浩紀クオリティ(笑)。リトバスの主題歌とかしらねええええ。eufoniusがポストモダンの最先端を行く評論家の好きなユニットとか…評論家ってなんか思想的背景があるような曲を嗜んでいる(←これが正確な表現)イメージがあったんだけど、そんなの勝手なイメージだったようです(笑)。それとも、東が特殊なのか…。

>愛って何ですか?

人生が一回しかないことへの覚悟と諦めと肯定。

>娘さんを持った今ならわかりますか?

結婚前から理論的にはわかってた。


いいねぇー。"理論的にはわかってた"あたり最高ですねー。

まぁ、そんなことはどうでいいんですけど、

>最近対談した批評家の中で最も手ごわい、というか感心した方は誰ですか?

>北田、伊藤剛、高橋源一郎、大塚、田中、笠井なんかがすぐに思いつくのですが

おいおい、そりゃさすがに秘密だよ。

でも疲れたのは大塚で、新鮮だったのは高橋かな。


僕自身、マメにチェックする人ではないので、高橋源一郎×東浩紀がどこかであったのは知っているのですが、読んでません。が、個人的に好きな評論家(まぁ、高橋は作家ですが、半ば評論家だし)同士なので、いつぞやは読んで見たい。
というか、今の文学界に東とタメを貼れそうなのは高橋源一郎しかいないような気がする。なんせ、ラノベよりのポジションにいる(接近ジャンル?)笠井潔ですらダメだったんだし(これは本当に想定外だった)。東側はあんまり気が進まないかもしれないけど、ぜひとも対談本出して欲しいなぁ…。

>そういやあずまんて奈須きのこについてなんかいってんのみたことないんですが

読んだことあるの?

「美少女ゲームの臨界点」嫁。


奈須についてどういっているかは知りたい。そのためにあのBOXを買えというのかああああ。
あっ、そういえば、リア友が買ってたなぁ…。

>『ゲーム的リアリズムの誕生』で用いた環境分析の手法って、

>現代の文学理論(フェミやポスコロ系)で行なわれている手法、

>すなわち、従来のテクスト論に歴史的要因や文化的要素を

>挟み込むものとなんら変わりがないと思うんですがどうでしょう?

全く違う。

同じだと思うなら、その手法でラノベを分析してごらん。


それは確か双城さんも指摘していたし、間テクスト性を用いた分析との違いは僕もよくわからない。が、あずまん曰く違うらしい。これは文学系の東読者(見ている限りスレにも何人かいるようですが)は検討すべきことじゃないでしょうかね。だが、僕にはそんな分析することは出来ません。ためしに誰かやってくれええええ。

>2.動ポモシリーズにはキャラのデータベース以外に、物語の構成・設定のデータベース化の問題が欠けているという批判はどう感じるか。

そりゃそうだ。


「ストーリーのデータベース化」ということは前から考えていたら、そういう批判がちゃんと顕在化していたのか…僕が思いつくレベルのことは誰かが思いついているか、やっぱり。

>ソーカル事変以降、フランス現代思想を読むのって難しいというか

>でたらめな擬似科学的記述をうまく無視しながら読むしかないんでしょうか?

理工系の科学者の薄っぺらな人生論も、経済系の人間観の底の浅さも、人文系の人間からするとかなりキツいよ。
たがいにそういう限界を尊重するしかないんじゃないの。


これ名言だと思う。ホントさ、経済経営の某先輩とかとよく衝突するもん(笑)。平和志向の人間だから出来る限り回避しているだけで。就職科の作った資料とか、「自分とは?」みたいな哲学的で根源的な問いがたった二行とかで済ませてあってマジ「死ね」とか思うしさ(笑)。
理系の教養の授業とか受けてても、ホント教授がクソみたいな人生論語ってたりするしさ…。
とか言う僕も、デタラメな疑似科学を全く見抜けない人ですが…。

>それと前回と今回の日記は読者との相互作用が起こっていてある意味前衛的ですが、

>筒井ファン的に何か思うところはありますか?

前衛はよくわからんが、筒井は先駆者だと思う。

批評空間は彼を評価するべきだった。まじで。


そうだ!そうだ!とかいいつつ、あんまり筒井読んでなかったりするオレ。
余談ですが、僕が大学入ったときに大学の持っているリソースにほとんど期待を持たなかったのは筒井康隆の『文学部唯野教授』のせい(大学"時代"には期待を持っていたけど、大学"自体"には期待を持ってなかった←あっ、いい感じでシャレになってる)。意外と入ってみたら、それなりにセンセイはマトモだった(笑)。ごめんなさい。

>小松左京先生は戦争がなければSFにいかなかったと発言されましたが、

>東さんは「これ」がなければ現代思想にいかなかったものはありますか?

作家名なら、小松左京、新井素子、押井守。これはまじです。

そして彼らがもともとベースなので、現代思想からも外れるのだと思う。


これは凄い。新井素子ってラノベの元祖みたいに語られるけど、実は僕は一切読んだことありません(そういえば『チグリスとユーフラテス』読んでいる友達いたなぁ…見てる?)。
なので、全部伝聞なんですが、大塚英志が新井素子を「不思議な小説」と捉えているのと(『サブカルチャー文学論』にて)、比べると対照的で面白い。
多分、このあたり探ったら二人のラノベ観の違いは相当なものかもしれませんねー、大塚英志が言う「キャラクター小説」とか「ライトノベルズ」とかの呼称は不自然すぎると思う。

>自分は不勉強なのですが、そういったことについて書いてあるお薦めの本ってありますか?

うーん、これも難しいんだよね。。

ぼくは、あとで薄っぺらだと打ち捨てることを織り込み済みで、

入門書とかキーワード集を片端から読むことをお薦めします。

「あいつはよくわからない言葉を並べているだけだ」と

批判されるのを怖れてはいけない。

実感を伴った言葉で話す20代なんで、それこそ退屈に決まっている。


マジか(笑)。テクニカルタームを並べて理論が上滑りするのが僕は怖いから、テクニカルタームなんてあまり使いたくないんだが。どーも、退屈でさーせん。

やばい、調子にのって突っ込みいれ過ぎた(笑)。しかも、いつものブログと明らかに口調違うし(笑)。ま、いっか。

正直、僕は東読者になったのは『動ポ2』以降だったりするので(勿論それ以前にも『動物化するポストモダン』ぐらいは読んだことはあったし、『ファウスト』創刊時からずっと気になってはいた)、それ以前の文脈みたいなのはあまりわからなかったりするのですが。
でも、本当に注目すべき評論家だと思いますし、オタク界と社会と現代思想を接続させた功績は大きいと思う。
宇野常寛さんとかも東批判するけど、結局はこの人も東が作ったパラダイムの上に載っているだけなんだよねぇーとは思う、まぁ僕ごときが言わなくても宇野さん本人もわかっているでしょうが(だからこそ、あそこまでの東批判を展開するのか・笑)。

あ、あと今更ながら「はてな」のアカウント取りました。ブックマークサービスをどっか使おうと思って、何かに負けた気がするけど(笑)やっぱり「はてブ」かなぁ…という理由で。今のとこ「はてなダイアリー」を書くつもりはございません。あっ、でも書かないとダイアリー市民になれないんだよなぁ…キーワード編集したいだけなんですが(笑)。




コメント返信
>tamakiさん

>どんな言葉を並べてもどうしても嘘っぽくなりますよね。

本当ですよね…リアルで会っている人なら、身振りとかで何とかしますけど、文字情報が主体のネットとかは本当にどうしようかと毎度思います…。

>ちなみに道徳の時間、「なんでこんな話が教科書に……」と思って読んでたタイプです

言われて見ると、道徳の教科書って何載っていたのか、ぜんっぜん覚えてません…。何故か芥川の「蜘蛛の糸」が乗っていた気が…、それぐらいですね…。

>ってあったんで自分的に考えてみたんですけど(すごく短い時間でですが……)文学的解釈なんて本当はなくて実はすべて社会学的解釈でしたというズコーとするオチが出てきました

僕の中のイメージとしては、「文学史に当て嵌めて考える」とか「作品の構造を分析する」とか「他のテクストと比較する」みたいなのが文学的解釈で、
「この時代の特徴が○○という作品に顕在化している?」みたいななのが社会学的解釈?
というイメージです。
でも、どうなんだろう…よく考えると余り区別して考える必要はないのかも…。

店員に「ありがとう」と言う人が大嫌い。おかしいのでしょうか。。。
(中略)
見ててイラッとします。会釈ならいいんです。私もするし、感じいいです。でもなんで声に出す?
知り合いでも何でもないのに、馴れ馴れしくない?と思います。

Yahoo!知恵袋より引用

いいねぇー、Yahoo知恵袋ってこういう質問があるからやめられない(笑)。まぁ僕も「やじうまwatch」で見て気づいたぐらいだから、頻繁に見ているわけじゃないですが。

そんなこと細かいこと気にするなよ、って気はするけど、僕もなんとな〜くその感覚はわかる。なんでそう感じるかは自分でもわからないんだけど。そんな微妙なところだから多分この感覚が分からない人もいるんだろうなぁ…とも思う。
なんていうか、この質問って全然「道徳的」ではないんですよ、子供の頃から「挨拶はちゃんとしましょう」「感謝ははっきり伝えましょう」とか散々言われてきたわけだし。

誰にでも「ありがとう」と言える人、素敵だと思います。
「ありがとう」という言葉は友達に対してだけに言う言葉ではないと思いますが。


なんか僕的にはこういう「道徳的」な回答のほうが若干「イラっと」きてしまう。「ありがとう」の安売りなんてするな!みたいな(笑)。

月並みなことだけど、本当に相手に感謝の意とか、謝罪の意とか、賞賛の意を示すのは難しいと思う。

僕なりの解釈で申し訳ないんですが、「会釈」とかは「してもらって」思わず出た、という印象があってリアリティがあるけど、声に出して言う「ありがとう」は"わざとしく"感じてしまうんじゃないですかね…。

その微妙な違いは、多分育ってきた環境とか地域とかにもよるんだろうし、そこで本当に微妙なディスコミュニケーションが起きるんじゃないですかね(別に「ありがとう」って声を出して言う人がお世辞を言っているというニュアンスではなくて、それに"嘘っぽさ"を感じる人がいるということです)。

なんていうか子供が感謝を示すときに、頭下げて「ありがとうございました」というのに「嘘っぽさ」を感じて、はにかむ様に笑う方がリアリティが有る人はこの質問は何となく理解できるんじゃないかなぁ…(笑)。なんていうか、「道徳」への信頼度の違い?

僕なんかは「道徳」とか胡散臭いよねー、とか子供の頃から思っていた人なので、何となく礼儀正しさに嘘っぽさを感じてしまったりする…いや、悪い癖だというのはわかっているんだけど。でも、「ありがとう」って言われて、「どういたしまして」って返しましょうって学校で教えるけど、そんな言葉過去に一度も使ったこと無いし!とか考え始めると、学校で教える「道徳」とか「マナー」とか胡散臭いものに思えてきて…っていうの無いですかね…僕だけ?

まぁ、僕的にはそんな細かいことを気にする人ではないけど、この質問者を叩いている人はそれはそれでどうかと思う…。多分普段「ありがとう」って言って、そのように取られることがあるということを全く考えたことない人なんだろうけど…そういうディスコミュニケーションがあるんだよ、ということも考えないと本当に感謝が伝えられる人にはなれない気がする…。

本当にコミュニケーションって難しいよなぁ、月並みだけど…。一つの言葉でもどういうコンテクストを持っているかで、全然捉え方違ったりするし…これが最たる例でしょうね。

それが言語の面白いとこだし、人間の面白いとこなんでしょうけど、それでディスコミュニケーションが起きちゃったりすると、そんなにポジティブに考えられなくなったりするし…。
でも、何ていうか素人レベルで他人が作ったものを評価するときに、僕は自分のことは棚に上げるので(笑)「これは微妙じゃね…」とか思ったりするけど、本人を目の前にするとどうしてもいい所探して褒めたくなるし、実際そうしている。
けど、問題は「本当に凄い」と思ったときに、その「本当」部分が伝わらなくて物凄く苦労する。

まぁ、基本的にひねくれ者というかシニシストっぽいとこがあったりするので(これでも大分この癖直そうと努力したんですよ?)、あんまり当てにならない意見ですが。
ただ、こういう「道徳」的じゃないんだけど、一部の人が「何となく」感じている感触みたいなものがこういうYahoo知恵袋なんかに出てきて、人気Q&Aになったりするからインターネットはすごいというか、やめられないというか…。

長年の付き合いである有瀬さん曰く、僕はリアリストらしいんですけど、リアリストってある意味「リアル」を求めて彷徨うロマンチストじゃね?とか思う今日この頃(笑)。
だって、「現実」なんて僕たち認識できないですよ(笑)、多分。哲学的に言うなら、カントの「物自体」とかラカンの「現実界」とかなんだろうけど、そんなもの認識できねーよ!ってなわけで、結局「現実」を求めるために、「現実感」「リアリティ」を欲しているのではないか、と思うんですよね…。
ロマンチスト側から言うと、「ロマン」(夢)の対義語は「リアル」(現実)なんだろうけど、リアリスト側から言うと「リアル」(本物)の対義語は「フェイク」(偽者)になるような気がする…。だから、ロマンチストは「ロマン」がいいって言うし、リアリストは「リアル」がいいって言う気が…って、言っている自分はやっぱりリアリストなんだろうか…。

なんか似非哲学っぽいなぁ…まぁ、いいや。
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ニコニコ市場見て気づいた。こんなの買う人いるんでしょうかね…。
というわけで、今日は特に書くことないので、コメント返信だけです。

コメント返信
>tamakiさん

>私のも非常にゴッタ煮ブログ(既に闇鍋状態)ですがやっぱりブログは書きたいことを書くにおさまってしまいますよね……

まぁ、やっぱりそうなってしまいますよね…。そもそも、うちなんかは一記事で複数の話題を書いてしまうので、毎回記事のカテゴリ分けに苦労してます(笑)。

>そうですね……いつのまにシフトしたんでしょうね。ただ単に古いものと新しいものの違いが解釈タイプの違いになってるだけなんでしょうか。

何でなんでしょうね…確かに、新しいものは、社会と結びつけて語りやすいですしね。
そういえば、社会学関連の本でよく『なんとなく、クリスタル』が消費社会化の典型例みたいな感じで上げられていますね…。こういう語り方が主流になっているんでしょうか…でも、それはそれでツールとして

>それはそれとしてアニメやマンガを文学的解釈で誰か語ってほしいです、国文専攻としては……だめですかね〜

確かにぜひとも見てみたいですよねー。
あれ、でもふと思ったんですけど、文学的解釈って何なんでしょう…なんか普段意識して使ったこと無かったんですけど、ふと言われるとわかんなかったり(笑)。ロシア・フォルマニズム?文学史的?
「○○批評」とかいう言葉は聞きますけど、「○○的批評」の一つとして「社会学的批評」もあると考えると…うーん、わからないです…。確かに、何となく実感としては「文学的解釈」みたいなのはあるんですけどね…。

コメントありがとうございました。
そろそろブログ歴2年になるんですけど、今更ながらどういう方針でブログって書いていけばいいのか悩んでいます。2年と言っても、今の方向性に固まったのはここ1年ぐらいですが。

書きたいものを書けばいいじゃん、っていうのは真実なんですけど、ここ最近僕が個人的に好きなプロ野球とかF1とかを書くのをすごくためらってしまう。と言っても、プロ野球の方は今年は応援しているチームである西武の最下位フラグが立ちまくりなので(笑)、あんまり書く気はしないんですが。
例えば、F1なんか書いても多分ほとんど誰も読まないし、そもそも知識に欠ける僕が書いたとろこで面白いものが書けるわけではない。かといって、F1を全く知らない人に向けてF1記事を書くと本文を超える注釈が必要となってしまう(笑)。というわけで、F1に関してはGP終了後に感想を書くぐらいしか出来ない。

まぁ、内輪ネタとかそういうことを気にしていると、何も書けなくなってしまうんですが、だからといってあんまりごった煮にしてしまっていいのか?という問いもあることはあるんですよね…。

基本的にはブロガーが書きたいものを書く、でいいとは思うんですよ。それこそ宮台真司みたいな影響力のある人ならともかく(笑)、普通の人はほとんど自己満足みたいなもんだろうし。別に「敢えて」とか、そんなのに拘る必要性は全くないので、ベタっと自分の書きたいものを書いてしまってはいいとは思う。
また、内輪になることだって、「島宇宙化」とか言われる時代においては仕方ないだろうし、自分がいるコミュニティ内で通じることを書けばいいと思う(だから、mixi的な内輪はほどほどにしておいた方がいいだろうけど、『ef』の感想はありだろうと・笑)。

問題は何かっていうと、ブログに書く内容が趣味のコミュニティを越えてしまっていいのか、というとこなんですよね…。学問は(それなりの)普遍性を持つので、そこをベースにすればアニメとF1一緒に書くことは出来るでしょうけど、そんなこと考えながら野球とかF1とか見ているわけ無いじゃん!ってなわけで(笑)。
インターネットって大枠としては「趣味ごと」にコミュニティが分かれていると思うんですよね(勿論例外はありますが)。でも、何だかんだで多くの人がいくつかの趣味は持っているだろうし、いくつかのコミュニティを兼任していると思うんですよね…。
多分、このブログはオタクコミュニティと学問コミュティが重なるあたり*1にあるんだろうけど(どっちよりかは言わない・笑)、曲りなりもそこを基本軸に(多分)推移していると思うんですよ。もちろん、その枠内だったらどっちかに傾くことは全然ありだと思うけど、野球とかF1になってしまうと全然方向性が変わってしまうわけで、それはどうよ?という気分になってしまう。
いや、ブログ分けてしまえばいいじゃん、っていう話なんですけど、分けるほど書くことがなかったりするんですよねー、スポーツネタとか(笑)。

いっそ色々なことを考えるのを諦めて、淡々と本とか作品のまとめなり感想なりを書くブログにしちゃうというのも手ですが(笑)、それはそれでねぇ…。

というわけで、全然ブログの今後の方針が決まってません。というか、ブログって方針とか考えて書くものじゃないような気がしてきた…。
"自然に書けばいいじゃん"とか言っても、やっぱり色々と考え始めると、"自然に書こう"という改めて思うこと自体が"自然じゃない"ことになってしまうし…。うーん、本当に何か書けばいいんだろう、とか言いつつ何だかんだで記事書いているしなぁ…。

まぁ、でもブログレベルではやっぱり本音を書きたいよね…というのが"本音"だったりします。

*1…でもこの重なるあたりって意外と広いよね…というか、重なるあたりで一つのコミュニティが出来てしまっているのは何故!?
今の時代、作品を語るということにおいて、文学的哲学的な解釈よりも社会学的な解釈で語られるようになって、アニメとかゲームとかのサブカルチャーを語りやすくなったというのがあるのかな…。ん、逆かな?サブカルチャーを語るために社会学的解釈が先行するようになった?
まぁ、いいや。

追記
ニュース見て気になったので…。

都内の引きこもりが2万5000人と推計 東京都の調査で


 都によると、無作為に抽出した都内在住の15歳以上34歳以下の男女計3000人を戸別訪問してアンケート調査を実施した結果、引きこもりの若者は全体の0.72%を占めることが判明。


誰か3000×0.0072計算しようよ…。3000人ぐらいの調査で、0.72%とか有意な差なんでしょうか…。21.6人。実際はアンケート回答率は50%そこそこだったりするだろうから、もっと絶望的な数字になるような…。

また、引きこもりの若者のうち男性が全体の71%を占め、女性の29%を大きく上回った。


3000*0.0072*0.29だ?何人だよ…

加えて引きこもりの若年者は、そうでない人に比べて「親と自分との関係がよくない」「家族は私を必要としていない」「私は家族から十分に愛されていない」などと感じている人が多かったことも分かった。


全部集まったと仮定しても2900人以上と20人を比べてね…。

追追記
ごめんなさい。ちゃんとした記事がありました。

<引きこもり>最多は30〜34歳 就職・就労きっかけで



 調査は、都内に住む15〜34歳の男女3000人を住民基本台帳から無作為抽出し、昨年9〜10月に個別に訪問。1388人から協力を得た。うち10人を引きこもりと判断し、別途調査した18人を加えて計28人を分析対象とした。


20人どころじゃなかった(笑)。質的調査だったら、この人数でも問題ないんですよね…アホだったのは東京都じゃなくて産経か…なにをどうやったら、10人と言う調査結果から、2万5000人とかいう数字が出せるんだか…。
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ええと、何で見たかというと例の某日記が(どう考えても暇とは思えない時期に)絶賛しまくっていたからなんです。いや、やっぱり正直言おう。「『CLANNAD』なんて目じゃない」というフレーズがカチンときたからなんですが。(もしこのフレーズまで含めて、有瀬さんの作戦だとしたらたいしたものです)
はっきり言って、そこまで言うかと。あの東浩紀に神が宿っていると言わしめた風子と最高のバカキャラ・春原(←個人的に好き)を超えていくかと!?

というわけで、今日はたまたま暇だったので12話全て視聴。
それこそ新海誠的な映像表現、ポップアートっぽいOP、その他、斬新な映像表現、まさにクリエイター魂ここにありというのは僕は嫌いじゃないし、それになりに楽しめた。

凄く気になったところで、比喩表現の「うまさ」が光っているところ。でも、同時に「あざとい」と感じる自分がいたのも確かなんですよね…。「うまい」表現と「あざとい」表現ってこんなに紙一重なんだって初めて気づいた(笑)。

例えば、「鎖に繋がれた羊」という比喩。確かに「うまい」比喩表現なんだけど、同時に「あざとい」。「うまい」比喩表現というのは要するにシニフィアン(意味しているもの)とシニフィエ(意味されているもの)が表裏一体なんですよね。では、何故それが「あざとい」のか。簡単に言えば、作者が作るときからシニフィアンとシニフィエが不可分にくっついているからなんですよ。だから、誰が見ても「鎖に繋がれた羊」は千尋の比喩だと思う。なんていうか、狙っている比喩?のあざとさを感じてしまう。
「比喩」ってそこが面白いのではないと思うんですよ。一つのシニフィアンが作者が(意識的には)思いもよらないようなシニフィエと結合して読者に読解されてしまう。東浩紀の「誤配可能性」じゃないけど、そこがやっぱり「比喩」の面白いところだし、その「感性」が僕はクリエイターの見せ所だと思う。狙って書いた比喩なんて、ようするに「理性」で書いた比喩なわけで、僕みたいなひねくれた人間(笑)には「あざとい」ように見えてしまう。

個人的な感想なんですけど、『ef』見ていて僕は12話のED前の3分ぐらいですごい萎えた。結局、そこに落とし込むのかよ…という愕然とした気分で、決意に満ちている彼らを見ていた自分がいた。そんなこと言うために12話も使って描いてきたのかよ!?っていう気分で見てた…そんなこと改めて言われなくても、わかってるよ。分かっているけど、どうしようもないからみんな困っているんじゃん。

夢?そんなのあったよ。そして、まだ大学生だし、「夢」を叶えられる可能性だってないわけじゃない。でも、何だかんだで僕たちは現実を生きていかなければならない。来年の今頃はシュウカツなわけで。
例えば『CLANNAD』の春原だって、スポーツ推薦で入ったぐらいだし、「夢」はあったんだよ。でもやっぱり挫折するし、だからといって人生をやめるわけには行かないから、春原だってバカやって過ごして、他者からちゃんと承認されているし、時々熱くなるものを見つけて熱くなって、という「日常」を過ごしているわけで、でもそれがやっぱり僕たちじゃん、と思うんですよ。

まぁ、何でこんなに意地悪なことばっかり言っているかというと正直、自分が「嵌れ」なかったからなんですが。なんていうか、この作品年齢制限あるよね…何歳以下っていう。せいぜい、大学生ぐらいまでじゃないかなぁ…この作品が楽しめるのは。

『ef』がダメという気はないけど、僕にとって必要な物語じゃない。というか、この作品見てたら無性に村上春樹が読みたくなってきた(笑)。『ef』は「文化的雪かき」のリアリティに勝てないだろ…。

コメント返信

>銀狼さん

>毎回楽しみにみてまーす!

どうもありがとうございます!何となくブログに自信なくしていたところなので、そういう短いコメでもありがたいです。
某日記(ブログじゃないらしい)が『ef』を絶賛していた。
『CLANNAD』なんて目じゃないって言われてもなぁ…僕の記憶が正しければこの人『CLANNAD』見てなかったと思うんだけど…。
というわけで、なんと言われようと風子と春原には神が宿っていると信じている今日このごろです(←某所のパクリ)。

まぁ、別に『CLANNAD』にさほど愛があるわけではないので、どうでもいいと言えばどうでもいいんですけど。『CLANNAD』よりも『School Days』だろ…って、やっぱり僕は感動系よりグロが好きらしいです。
「幻想のぶち壊し」の方がきっとすきなんですよ…僕は(笑)。某所でリアリスト扱いされてましたけど、別に僕は幻想を否定するつもりは全くないんですけどね…。けど、ぶち壊すことの魅力もあるじゃないですか!と思う。
それをぶち壊したところに何があるかっていうと、それこそ『School Days』みたいな「狂気」なんですけどね…ハハハ。

アニメ見ている暇があるなら、そろそろ真面目に勉強したいと思います(こればっかだな、最近)。今更だけど、ジジェクのラカン解説本読んでて、1年ぶりぐらいにラカンがあたりを参照したくなってきた。「ラカンはワカラン」けど、色々物事を考える上で、やっぱり一つ理論の足場は欲しいので、そういう意味でラカンは使えるのではないかと。って、『セミネール』でも読めってことなのか(それ無理・笑)。

そういえば、スクイズをラカン的に解釈しているブログがあったなぁ…どっかに(どっか忘れた)。「自分の欲望とは他者の欲望である」というラカンのテーゼを忠実に表しているのは西園寺世界だと。まさにそのとおりだとは思います。
だから、前ちょろっと書いたことあると思うんですけど、スクイズってセジウィックの逆バージョンとしての「女同士の絆」が現れていると思うんですよ。誠が何であんなにもてるか、といえば(勿論単純にエロゲーの主人公だからでもあるんですが)、「女同士の絆」の仲で誠の交換的価値は高いからこそだと思うんですよ。

ラカン的に言えば、「恋愛」という象徴的秩序は(「象徴界」≒「言葉」)、現実界(「世界」)からの介入により、瓦解すると言えなくもないような気がするけど、ここまでくると単なる駄洒落だよなぁ…。

でも、僕が何故あそこまで「スクイズ」に「嵌った」のかは考えてみるべきなのかも…
色々と「きもい」話はスルーして、

「ゆとり教育」の先に…自信も失った若者たち

「ゆとり」「ゆとり」言っている奴が一番、頭悪そうに見えるだけどなぁ…と「ゆとり」教育世代から反論してみる。ちょうど、僕たちの年から高校は教育課程が変わったんですよねー、というか、「ゆとり」という言葉は「今時の若い者は…」の2chver.として機能しているような気がするんですけど…「今時の若いものは…」とかいうとじじいっぽく見えるから、「ゆとり」で誤魔化しているような。

嫌味を言わせて貰えば、自分の所属なりコミュニティなり出身大学なり(世代なり)を誇る人って要は自分のやっていることに自信がないんだよねー…とか言いたくなる。まぁ、「お前はどうなんだ」とか突っ込まれそうだけど。

そういえば、高校時代に東大教育学部の4年生名乗るわけわかんないOBが「東大は素晴らしい」イデオロギーを押し付けまくりにきたことがあったけど、要はそれしか誇るものがないんだよね…だって、今(絶対ありえないけど)高校生の前で何か話せって言われたら、今自分が勉強していることをそれなりにわかり易く話そうとするよ(笑)。四年生になって文一だの文三だのに拘っているのってどうよ…。

一応念のために言っておきますけど、真面目に東大は凄い大学とは思いますけどね。先生のレベルとかも桁違いだし(自分のやっている分野しかわかりませんが、他分野でも多分そうでしょう)。ただ、"東大"ブランドしか誇るものがないというのはね…ちょっとねぇ…。

まぁ、確かに今の大学生あんまり勉強してないよなぁ…授業サボりまくっている僕が言えることでもないですが。ついでに、二次方程式とけねええええ(笑)、ためしに人文の友達に二人ほど聞いてみたけど、どっちも解の公式覚えてなかった(笑)、良かった良かった。

なんていうか、僕のイメージの大学生って授業は碌に出ないけど、わけわかんない本は読んでいるというイメージがあったんですけど、実際は逆だったりするという(笑)。センセイ曰く、「昔よりも出席率は全然いいけど、勉強はしてない」らしい。昔はどんだけ出席率悪かったんだ…。
まぁ、僕も「○○ぐらいは知ってるでしょ?」とかセンセイに言われて、名前しか知らなかったとか結構あるし、全然人のこと笑ってられる状況にはないですけどね…。勉強しよう…。

でも、やっぱり、大学入って、「高校」のことなんか誇りたくなんかないなぁ…
いやぁ、昨日の記事今見ても正直「きもい」から、そのまま職業ニートさんに「風子は僕も好きですよー」というコメントを返してあとは全力で黒歴史にしようと思っていたら…

そうしたら、なんか某所から全力で反論を食らったんですけど…しかも結構意外なところで(「萌え」について論じていた話じゃないのに・笑)。

http://so-guy.net/diary/archives/273.html


「萌え」は「年下に向かうベクトルの可愛さ」である。アニメファンはそれを求める。だから、ロリキャラや子供っぽいキャラデザが受ける。そういう意味で「萌え」は「ロリコン」と深い関わりがある。しかしここに「性衝動」の関連性は必ずしも深くない。


話すと長くなるし、正直きもいし、あんまり長い反論はしたくないんですけど…。

結局、この話はフロイトvsアンチフロイトと同じ論争に行き着くんですよ…。要するに僕の話の前提としてあるのはsexual/non-sexualは1/0じゃないよって話なんですよ。
なんでフロイトがあんなに反論を食らったかというと、リビドーを僕たちが考えるsexualなものに限定されると多くの人が考えたからなんですよ。実際はフロイトが使うリビドーっていうのは最も広い意味で使ってあるわけですよ。何が"性的"で何が"性的でない"かの境界線なんて社会的文化的に規定されるわけで、そこの有意な差はないと思うんですよ。

日本において(海外でも?)リビドー=性欲と解されてしまう。だから、この言葉を使いたくなかったんですよ…。その結果、性衝動とかわけのわからない言葉を使ってしまうことにより、余計混乱を招いたわけですが。正確にはリビドー⊃性欲であって、しかもsexual/non-sexualの境界は曖昧だっていう話なんですよね…。

もし混乱を招くというなら、性衝動という言葉を全て"本能に基づく欲望"という言葉に言い換えてもいいと思います。ただ、源泉としてリビドーというエネルギーがあって(最もこの説明はかなり力動的なので無理はある)、例えば一見正反対に見えるタナトスだって、あるいは無関係そうに見えるフェティシズムだって(ヴィトゲンシュタインが数学解きながらマスターベーションしてたとか)、そういったことまで含めて、リビドーの表出として考えることが出来るよねーって話。

正直、萌え論争なんて巻き込まれたくなかったので、「精神分析的に」という但し書きを着けたつもりだったのですが、まぁ誰も見てないよなぁ…(笑)。あくまでも、Kei的理解に基づく精神分析的解釈(つまり、あくまでも一つの見方に過ぎない)であるということはここで付け加えさせてください。
精神分析なんて、数ある視点の一つに過ぎないわけで、それで人が全部わかるとかそういう付け上がったことを思っているわけじゃない。

そういった観点で見た場合、二次元ロリと三次元ロリ(所謂児童ポルノ)に有意な差はないと思うんですよ(勿論社会的という観点で見たら大きな差はありますよ?)。
児童ポルノだって要するに二次元だし、児童ポルノという性質上実行犯はほとんどいないわけで、ほとんどの人が写真とか動画にフェティシュな感情を抱いているだけだと思うんですよ。多分、実際の児童を前にしたら首絞めるんじゃないかなぁ…宮崎勤みたいに(←勿論、これは想像ですが)。
つまり、二次元ロリだろうが、三次元ロリだろうがフェティシズムの対象が違うだけじゃない?という話です。別に三次元ロリが好きな人と二次元ロリが好きな人が被っているということを言いたいわけじゃない(まぁ、ある程度は被っているでしょうが)。ただ、対象が違うだけで本質的にはかわらないんじゃない?という話です

別にプラトニックラブとか「年下に向かうベクトルの可愛さ」とか、そういう全く"性的"でない欲望が存在しない、ということを言いたいわけじゃないんですよ。何故なら、何が"性的"かというものは後付けで規定されるものだから。
ただ、それが"本能に基づく欲望"という観点で見た場合、所謂"性的な欲望"と"性的でない欲望"の境界線なんて曖昧だって話なんですよ。
近代は"性的"なものを抑圧してきた社会だから、"sexual/non-sexual"にきっちりと区別をつけ、"sexual"なものを抑圧したがる。でも、実際はそんなにきっちり区別できるものじゃない。
"ほしのあき"の写真集を買う人は性的な欲望に基づいていて、"浅尾美和"を見る人は違う、とかそんな単純な二元論で解決できる問題じゃないと思うんですよ。
あるいは『ローゼンメイデン』で主人公のジュンが、ドールたちの着替えを覗いて顔を赤らめるシーンなんて最もそのことを表してると思います。今まで、ドールたちを表向きは性的な欲望の対象として考えていなかったけど、それを意識させられたのがその着替えシーンだったと。

だから、アニメやギャルゲーとエロゲーの間にそれほど有意な差があるとは思えないし(それこそギャルゲー原作アニメは?という話にもなるし)、そこに有意な差を見つけようとする行為自体が、"sexual/non-sexual"をきっちり区別して、前者を抑圧しようとする近代人的行為ではないでしょうか?と反論はしておきたいと思います。

まぁ、別に僕はその近代社会がダメと言っているわけでもなく、それはそれで必要なんだけれども、元々が無理の多い社会構造だし、その無理が表出してくるのがこの児童ポルノ問題であり、浅尾美和の撮影禁止問題ではないかと、思うわけですよ。だから、根本的な問題から考えないと問題は解決しないのではないでしょうか?というのが昨日の記事だったわけです。

そもそも昨日の記事を書いた動機として昨日最初に貼った動画の



最後に"幼いものを守りたいと思うのは人間としての本能。"とかいうフレーズがあって、そういうレベルで推移してたらダメだろと思ったので昨日の記事書いたんですよね…"sexual/non-sexual"で後者が優位という二項対立図式から一歩も進化していない。それなら、"sexual"なものは規制していいのか?という論理になってしまう。つまり、その論理で行けば、二次元規制OKになってしまう。

だから、"sexual"なものは規制するどうこうじゃなくて、児童ポルノ法の本質であり、目的である"児童を守る"という目的のみを遂行すべきだ、というのが僕の言いたかったことなんですよ。
東浩紀言うとおり、僕らは"欲望"は裁けない。でも、このまま推移するとそういう話になりかねない(だって、規制賛成派も結局は"論理"より"欲望"なんだもん)。でも、それは防ぎたいよね、というのが僕の意見です。

あぁ、気持ち悪い…。吐きそう…。

コメント返信
>職業ニートさん

本当にこんな記事の下ですみません…。

>僕にその気はないんですが、なんか最近風子に洗脳されかかってます。

本当、僕も最初東を笑ってたんですよ…「神がかっている」とか何言っているんだと(笑)。
そうしたら本当に風子は神がかってた(笑)。
基本的に僕はあの系のキャラは好きじゃないのになぁ…、何でだ。


昨今の児童ポルノ単純保持規制問題が僕たちに教えてくれるものは、結局みんな「欲望」をかなえて欲しいってだけで、「論理」とか「倫理」とかは二の次(というかツールとしてしか機能してない)ってことだよね、と思う今日この頃。

この問題については、東浩紀が大変理性的な回答を書いているので、特に異論はないのですが、ようするに規制賛成派が何でわざわざこういう規制を作ろうかというと「ロリコンがきもい」だからだし、規制反対派は「ロリがすきだああああああああああああああああ」という欲望があるからだと思う。

勿論、子供は守らなければならない、というは大前提。だからこそ「児童ポルノ製作はダメだ」というのも大前提。
でも、やっぱりこういう話が出てくる素地には「ロリコンがきもい、排除したい」という欲望(これも欲望だ)があると思うんですよ。よく見かける規制賛成派の投稿に「ロリコンは人として間違っている」的なものがあるけど、こんなことを言い出したらキリがない(後述)。

「児童ポルノの鑑賞は現実の犯罪を誘発する」という論理が科学的にも統計学的にも根拠が無く滅茶苦茶であることは多くの人は認めるところだと思う。でも、それと同じくらい「児童ポルノは抑圧することにより、実際の犯罪が増える」という論理だって滅茶苦茶なわけで、何でそんな論理が出てきて、かつ(それぞれの派閥の中だけ)まかり通るのかというと、欲望の基づいて「論理」を編み出しているに過ぎないんですよ、結局。

実際、東浩紀ちょっとポロっと書いているけど


いや、それでもキモいから禁止するべきだ、というのであれば話は早いが(そして実際は社会の大勢はそういう論理で動いているのではないかとも思うが)、表向きはとりあえずそういうことになっていない。
東浩紀ブログ


この言葉がこの問題の一番本質をついている気がするんですよね…。

そもそも、僕は高校時代に岸田唯幻論を読んでいたような人なので、岸田秀のクリシェ「人間の本能は壊れている」というフレーズは大好きなんですよ。
簡単に岸田唯幻論を要約すると、「人間の『種の保存』本能は壊れている。けど、種を保存しなければならない。だから、種を保存するための『共同幻想』を生み出したんだ(ex.家族とか)。というか、そうしなければ生き残れなかったんだ」というお話。これがどこまであっているのかはともかく、僕が基本的に相対主義者なのは彼の影響です、はい。

で、話を戻すと、この論理で言えば、人間の本能は壊れている、けどある。つまり、どのように表出するかわからないって話なわけです。フロイト的に言えばリビドーなんていう便利な言葉になるんですけど、色々と誤解を招きそうだなぁ…(だから精神分析ってあんまり使いたくなんだいよなぁ…)。

つまり、何に性衝動を感じるか、というのはみんなバラバラなわけで、その最たる例がフェティシズムなわけですよ。要するに「萌え」って何か、って言ったら精神分析的言うならフェティシズムなわけで、言わば記号へのフェティシズムという高度なことをオタクたちはやっているわけで(←実は最近このあたり別の考察が必要な気がしているけど、長くなるので割愛)、でも彼らの欲望が"間違っている"のかというと前述のとおり「人間の本能は壊れている」わけだから、そんなことはない。

というか、フェティシズムが間違っているというのなら、生殖に結びつかないセックスだろうが、同性愛だろうが間違えているということになるはずなわけです。だから、キリスト教の一部は同性愛禁止じゃないですか。言わば、キリスト教というのは社会を継続していくために作った一つの巨大な「共同幻想」って考えることが出来ると僕は思います。

で、結局僕が言いたいのはペドフィリアもその表出の一つだっていう当たり前の話なんですよ。大人の女性に対するコンプレックスだの何だの言う人が一杯居ますが、それは当たっているかもしれないし、当たってないもしれない。どういう理由でそういう風に表出するかなんてわからないわけだけど、児童に対して性衝動を感じる人もいれば、いない人もいる。

これが厳然たる事実で、その事実を踏まえた上で人間ってやっぱり動物的な欲望に勝てないよね?って話から議論を始めないと、「人間としてどうこう」とかそういうくだらないレベルで推移していたってどうしようもないと思うんですよ。所詮、そんな人間像なんて共同体を保つために作られた「共同幻想」に過ぎないわけだし。

もちろん、子供を守らなければならない、のは大前提(まぁ、これも近代の伝統かもしれないけど、近代社会である以上、ここに異論をつける必要は無いと思う)。でも、「人間として間違えている」という論理で推移してしまうと、結局「二次元を規制しろ」という話になってしまう。
だからこそ、もっと根源的でかつ、知的レベルの低い段階(要するに問題は「論理」じゃないんだ)まで話を持っていかないとダメな気がする今日この頃。

でも、根本的な問題としてこういう話自体相当「きもい」んだよなぁ(笑)。なんか自分で書きながらすごい気持ち悪いもん(笑)。
だから、公の場では規制反対派もこんなことは絶対言わない。だから、色々賛成派も反対派も「論理」という名の屁理屈をつけようとする。…ま、それが近代っていうものなんですが。
「表現の自由」とか言うけど、「表現の自由」というのはあくまでも"原則"であって、それが場合によっては規制が入るのはご存知のとおり。かつ、その基準は恣意的なのも言うまでもないわけで…。

結論
気持ち悪い…(←アスカ風に)
どーも、朝から何も食べてないKeiです。でも、朝からこたつから動いてないので、全然おなかが減った気がしません。そこ、ダメ人間とか言わない。

というわけで、カウンタが10000をまわりました!この中でどれくらいが僕で(二重カウント防止とはいえ一日一回はカウントされているっぽい)、どれぐらいが常連さんで、どれぐらいが一見さんなのかはわかりませんが、皆様方ありがとうございます。
よくこんな雑文しか書いて無くて10000もいったなぁ…文章量が多ければ、検索サイトで引っかかる確率も高い!?ということでしょうか。
ところで、「宮台 石原」の検索ワードでグーグルでTOPに来るのは何故なんでしょう…。やたらと、この検索ワードで飛んでくる方が多いのですが…。

新現実vol.5新現実vol.5
(2008/01/31)
大塚 英志、東 浩紀 他

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『新現実vol.5』の東×大塚対談は読みました。まとめるのは面倒なので(こたつで寝転びながら読んでいたので全然チェックとか入れてない・笑)、勝手な感想書かせてもらいます。

僕個人の感想として大塚の立場はよく理解できるんですよね…。僕自身、もともとリベラルよりの思想を持っている人なので、大塚英志の考えはよく理解できるし、大塚英志の議論がちゃんと議論として機能するフィールドはあると思う(たとえば、宮台×大塚とか)。
ところが、東と話すと相変わらず噛み合わないんだなぁ…これが。東工大でのシンポジウムでも思ったけど、東と議論しようとするとどうも噛み合わない人多すぎ。噛み合っているのって、オタク系クリエイターとの対談だけじゃないか(笑)?

東は最近「工学で公共性を確保できる、というかそういうシステムを作っていかなければならないのではないか」みたいなことを言っているわけだけど、その具体的な中身なんて誰もわかってないし、これでは批判も検討もしようがない(笑)。

結局、のらりくらりとメタゲームをやっているように見えてしまう、ということに大塚は苛立っているわけです。でも…大塚英志の主張もよく理解できるけど、それ以上に東の気持ちもよくわかるんですよ(笑)。

東「メタゲームばかりやっているようにみえるけどどうか、という非難があります。しかし、ぼくの思うに、そんなのたいして理由があることでもなくて、みんなネットとかで叩かれるのが面倒くさいんですよ。(中略)どんなことを言ったって、必ず反論はあるんだからそりゃ疲れますよ」

その通りなんだよね…大塚英志はインターネットから遠ざかっているから、大塚の言っていることは頭では基本的に賛成できるけど、理想論にしか聞こえない。インターネット世代の東の言っていることの方がリアリティがあるんですよね…。もちろん「公共性の工学化」自体も理想論なんですが、何故そういうことを言い出したかは何となく実感できる。

東が何でインターネットでこれだけ支持を集めているかと言えば、やっぱり東はインターネットの現状を認識した上で物事を言っているからなんですよね…多分。

その現状認識が東と大塚では違うからこそ、こんなにも「オタク同士」なのに話が噛み合ってないんだと思う。東だって「個人的には同意見です」って何回も言ってるし、大塚の言うことは届く人には届くんですよ、ちゃんと。
でも、現実的な問題として届かない人も一杯居るわけで、そういう人をどう社会に包摂していくか、という問いになってしまう。「啓蒙」だの「民度」だの言っても限界はあるよね…というのが多分東の現状認識としてあるんじゃないんでしょうかね…。大塚の言葉が届く人なんて限られているんだから。

話は変わりますが、世の中には「話せばわかる。それで世界は救われる」という信念を貫いている方も結構居らっしゃるみたいですけど、僕なんかは「なわけねーじゃん」とか普通に頬杖を突きながらシニカルに思っていたりする人だったりします(笑)。
でも、だからといって「他者を理解する努力をやめろというわけ」じゃなくて、「他人は完全には理解できない」のを前提として「努力する必要はある」という考えです(←なんか、こういう文章を無意識に書いてしまったけど、やっぱエヴァの影響でかいなぁ・笑)。

でも、実際は議論するうえでの現状認識が違うと、すでに議論にならない。そもそも僕なんかはあまり最近、議論する気になれないないんですよ…何ていうのかなぁ、僕は言葉にも論理にも元々信頼を置いてないんですよ(笑)。もちろん、それでも敢えて「言葉」や「論理」を使う必要は重々わかってますが(じゃないと、コミュニケーションとれない・笑)。なんかこんなこと(「論理」なんてくたばれ!みたいに)言うと、結構反発くらうんですけど、何でなんだろうなぁ…。

さっきの話に戻すと、東は近代の枠組みなんて限界に来ているというスタンスで(だから抽象論から考え直す必要がある)、大塚は近代というものにある程度信頼を置いていて、近代化を徹底すべき、というスタンスなんでしょうけど(そういえば、知り合いの左翼も同じこと言ってたなぁ…)、このスタンスの違いを生んでいるのは論理とかそういうこと以前に経験の差による現状認識の違いなわけですよ(結局、世代論に還元されてしまう)。

優れた評論家二人でさえ、こんな差があるのに、僕たちの偏った経験から導き出される現状認識なんてほとんど普遍性を持たないものだし、そんな状態で議論してもね…というのがあったりなかったり。
なんていうのかなぁ…、国文のセンセイに東浩紀のラノベ論をぶつけたって、すごく面白いし考えるべき問題のはずだ(と僕は思うのに)、空ぶるだけだし。国文なんて古臭いとこに言ったのは間違えだったかなぁ…、大人しく表象文化論にしておけば良かった(とかいいつつ、進路選択の時点では"表象文化論"の意味がわかってなかった・笑)。

うわっ、完全に愚痴愚痴トークだ(笑)。


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コメント返信
>majihamaさん

>僕の場合は逆に、実感はなるべく抑えるようにして、映像・台詞・設定といったデータを基点に考えてしまいますね。

僕なんかは出来ないですね…映像とか台詞とか分析するというのがまず出来ないです(笑)。
リアリティから出発して、「何でこのように自分が感じたか」を分析した方が(個人的に)面白いかなぁ…と思って、『電脳コイル』の感想は書いてました。
でも、あんまりどう感想を書いているか、とか考えたことも無いですね…結構テキトー人間なので(笑)。

コメントありがとうございました。
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いやー、モスバーガーに三時間だべって、外に出たら雪が積もってました…さすが東京とは名ばかりの山の中。うちの大学の奴らが根本的にモチベーションが低いのは、一説によると大学が田舎にあるかららしいです。まぁ、確かにそれはあるかも。郊外型キャンパスって慣れると基本的に環境はいいし、一人暮らしだと大学近辺に住んでいるから大学の周辺3kmぐらいで生活圏が形成されて、そこから一歩も外に出ようとしなかったりしますからね…。
明日の朝あたりアイスバーンになってそうで嫌だな…。

あっ、さっき、「ガンダム00」を某サイトで見ました。いやー、超展開でしたね。ネタばれになるからあまりいえませんけど、初めて光っているグラハムと刹那を見た気がする。
というか、ニコニコの論調変わりすぎ(笑)。ここで刹那株とハム株が急上昇して、某声優のキャラの株がストップ安って感じ。最も今までが某声優のせいで人気有りすぎだった気もしますが。
いやーでも、二人にはストーリーには絡まずにラブコメやっていて欲しかったんだけどな…。まぁ、「戦争」というは個人も関係あるよ、ということを示したかったのかもしれませんが。「21世紀」の戦争は「個人」vs「個人」になった、という論調はよく聞きますしね…。
でも、そういう点で言えば「00」は微妙だよな…というわけで、「コードギアス」の続編に期待。カレンも出るっぽいし。

*コメント返信*

>majihamaさん

コメントありがとうございます。

>アイデアの発案方とか、思考の型みたいなのを、種明かししてほしいです。
>仮に種が無くても、日ごろ心がけている思考のマニュアルみたいなのを教えてください。

そういうのにいいやり方があったら、ぜひとも僕も聞いてみたいんですけど…僕はてきとーなんですよね、基本的に。
たとえば先の『電脳コイル』の話だと、「ノスタルジー」を感じるというリアリティから出発して→ジブリ→「ジブリ」と「コイル」の違い、という形で自分の思考をそのままトレースする形で書いています。なので、書いている途中に思いついた、というのが真相なんですよね…。
フィクションは割合作品自体を楽しみたい人なので、何かぼんやりと考えることはあっても、メモを取ったりするということはありません。勿論、評論などではありますが…。

…うーん、改めて聞かれると、正直自分でもどのような思考方法しているのか、よくわからないです…。ただ、見ている途中にぼんやりと考えていることを書いているうちに思いつくというパターンは確かに多いですね(何か一番ダメパターンのような気がしてきた…)。
全然参考にならないやり方ですみません…。

でも、確かに他の人がどういう思考法をしているかは気になりますよね…本当論理的思考が出来る人はどうやっているんだろ…(←結構論理的思考は苦手だったりします)。
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宮村 優子、磯 光雄 他

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というわけで、某知り合いから薦められた『電脳コイル』を見てました。
世界観的には「serial experimets lain」系のシミュレーテッドリアリティ、それに演出はエヴァ風味って感じなんですけど…そんなこと以前に
ノスタルジーが先行して、どうしようもない(笑)。


どこかの日記で恩田陸の話が出ていたので恩田陸の話をすると、僕は中学から高校にかけて恩田陸をかなり読んでいた時期があるんです。で、文庫版だとまぁ間違いなく解説がついているわけですよ。
で、その解説で恩田陸を語られる上で使われるタームが「ノスタルジア」とか「郷愁」だったわけですけど、登場人物と同世代の僕にとっては「はぁ?」みたいな話だったわけです。
実際、ネットの印象とか見るに、その当時の恩田陸の読者は恩田陸と同世代(ノスタルジアで楽しんでいる層)とティーンエージャー(ベタに登場人物にコミットしてファンタジーとして読んでいた層)の二つだったと思う(まぁ、今はその当時よりも有名になってしまったので、もっと世代は広がっているかもしれませんが・笑)。
でも、解説を書く人は大人はそんなことすらわからないで「郷愁」だの「ノスタルジー」だのを堂々と書いていたわけですよ。これだから大人は…。

とか思っていたら、まさか自分が大人側にまわるとは…『電脳コイル』はNHKで18:30〜放送されていたアニメなので、登場人物と同世代の子供もかなり多く見ていたと思います。でも、もうストーリーとか世界観とか以前に個人的にはノスタルジアの印象が強くて強くてどうしようもない(特に中だるみする中盤はもろ)。さっきの例で言えば、子供に「はぁ?」とかいわれる立場にまわってしまったわけですよ、ついに(笑)。小学六年生とか最高に面白かったし…自分個人の話だけど。


*未見の方への注意*

あー、以下でネタばれしているようなしていないような感じです。ネタばれしているといっても、ストーリーの直接言及するというよりは、ストーリーの一部分にちょっと言及している程度なので、細かいことを気にしない方はどうぞ。





作品自体はすごいよく出来ていると思います。過去に引きずられる僕たちというものを作品内でメタ的に表現しているとも言えるだろうし。あながち公式HPのTOPの絵が夕方なのは偶然ではないと思う。
ミステリ的な仕立てといい、小学生たちの友情、恋の描き方といい、まぁこんないい小学生たちがどこにいるんだ(笑)って話だけど、ノスタルジアというのは基本的に過去が美化されて投影されるものだし。恩田陸の小説の登場人物もそうだし。

最終話がエヴァエヴァで「小学生が理解できるのか?」とか思ったりして、やっぱり大人の物語という気がした。大人(製作者)が作り出して、子供の頃の体験を媒介として、大人(視聴者)に届く物語。もっとも、島宇宙化した現代において島宇宙を越えようとしたら、子供の頃の体験を媒介とするしかないのかもしれませんが。
まぁ、もちろんこれがかなり大人的な見方であることは百も承知だけど(笑)、子供の目には全然違って見えると思う。
なにせ、そもそも僕の年では主人公のヤサコには全然感情移入できない(笑)。何か、上から見守っている感じ。そういえば小学生の頃読んでいた「ズッコケ」シリーズの解説の人みたいなこと言ってるなぁ…。

って、今頃気づいた。「ジブリ」が大人に受ける原因はこれか(笑)。気づくのおせええ…テーマ性とかもっともらしいことを大人たちが言うけど、結局はノスタルジアか!初めて合点が言った…、何でこんな単純なことに気づかなかったんだろう。

大塚英志が80年代ジブリはロリコン的魅力が武器だったが、トトロ以降は違うみたいなことを言っていたけど、なるほどこういうことね…「トトロ」以降はノスタルジアが武器だったわけだ。

まぁ、言い訳するならば百万都市の埋立地育ち(自然とは作られた自然(ex.公園)だった)の僕にはジブリは空想物語にしか見えなかったわけで…なんか自分がジブリが嫌いな理由がわかった気がする(勿論天邪鬼であることも一因なんですが)。

ジブリの描く"自然"が「自然に見えなかった」んだろうなぁ、僕には。僕の"自然"とは"作られた自然"で、綺麗に整備された公園でいかに想定されている遊びと違う遊びをするかが(滑り台逆走!)、僕の小学生時代の"遊び"だったわけで、ある意味「人工物」というのが僕の中で前提としてあったんだと思う(そして、これは多くの若い人は同じではないでしょうか?)。
『電脳コイル』は、「電脳世界」という人工物があって、その人工物が想定している使い方と違う使い方をすることが遊びになっているわけですよね。それが自分と見事に被っているんだと思います。だからこそ、「ジブリ」よりも『電脳コイル』に強いノスタルジアを感じた気がする。
この論理だとジブリでも『耳すま』あたりは、今見るとやばいのかもしれない(笑)。

いわば、"未来"的なシミュレーテッドリアリティの作品に"過去"的なノスタルジアを感じるというその矛盾こそが、『電脳コイル』の最大の魅力なんだと思います。
今の若い世代の過去は山の中や畑の中にあるわけじゃない、そこの作られた公園や道路、そしてテレビ画面(ゲームね)にあるというのを示したのが『電脳コイル』だったのではないでしょうか?(そんなものドラえもんが数十年前から示していたわけですが)。

…こんな文章を見るとおじんどもが「最近の若い子は、自然も触れてない。本当のものに触れてなくて、仮想世界ばかり生きているから、こんなこと言う」とか言いそうだけど、"本当"はどこにあるのだろう?って考えたら、本当/嘘=現実世界/電脳世界という単純な二項対立ではなくて、やっぱり"リアリティ"の問題だと思う。作中でヤサコが胸の痛みの方向が"本当"だと気づいたように。
だから、ヤサコは一度親に取り上げられたメガネをちゃんと取り戻している。何でもかんでも携帯のせいにするオジサマ方にはわからないかもしれませんが(笑)。

でも、いくつもの世界が並行しどれが"本当"かわからない状態に陥ったときに(迷子に陥ったとき)、その道を示すのは"他者"ということにいきつくような気がする。「lain」の玲音も、『電脳コイル』のイサコといい。

といわうけで、余計な話を随分と書いてしまいました…こんな長く書くつもり無かったのに。そろそろ、『空の境界』の続きを読みたいと思います。というか、積読本がやばいことになっているので、読書祭りといきたいと思います。とか、言ってたら『電脳コイル』の小説版が欲しくなった(笑)。上に貼り付けた表紙絵のイサコが格好良すぎです(はい、そこロリコン言うな)。
MADどうしよう…作るの面倒だなぁ…。

追記
「ノスタルジア」は英語、「ノスタルジー」はフランス語らしいです…特に意味も無く混ぜて使ってた…。
前回の記事ではすごいくだらないミスをしてしまいまして、申し訳ありませんでした。ネット歴何年だよ・・・みたいなミスでアハハ…。双城さんありがとうございます。

それはともかく、今日レポートを提出して終わり!春休みだ、やった!

とりあえず、Amazonで買ったもの。
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一番上にあるCDはとりあえず無視するとして、左の講談社新書は森村進。色々とリバタニアンの思想を参照しておきたかったのでとりあえず買ってしまった。一番上はご存知『新現実』。『新現実vol.4』はすげー詰まんなかったけど、今回は東と柄谷が出ているというのはちょっとマシかもしれない。
最近、柄谷行人(からたにこうじん)をどう打つかという話で「がらたにこうじん」と打てばいいことに今更ながら教えていただきました…今までそんな単純なことに気づかないで「つかたにこうじん」って打っていた僕はどうなるんだ。

そして、その横は国文の学生的にお世話になってます前田愛。僕の一応の興味領域である近代/前近代本。

なんか色々書きたいことがあったんだけど、レポートのせいで眠いのでまた明日。ブログ、MAD、部屋の片付け、その他様々な懸案事項は全て明日に回したいと思います。

http://news.livedoor.com/article/detail/3492877/

米ヤフーとマイクロソフトの合併の話。グーグルさーん、ここは対抗して、あの有名なグーグルゾンを…とか言いたくなるぐらい本当に実現したらすごいことになりそうですね。
実際、ヤフーとマイクロソフトが合併したら、フリーのメールアドレスはかなり独占になるんじゃないでしょうか。メッセンジャー市場は決定的になりそうです(もっとも、日本のヤフーメッセンジャーと米ヤフーメッセンジャーは仕様が違うらしいので、日本のヤフーメッセだけ取り残される可能性あり・笑)。
上のリンク先に書いてありますが、ブラウザのホームページがYahooになるは本当にありそうだなぁ。
もうそうなると、初心者ユーザーにはブラウザの選択の余地だけでなく、ポータルサイトを選ぶ選択の余地すらなくなるわけですね。もちろん、ブラウザの検索バーはデフォルト設定はYahoo。というか、検索バーがWindows上に表示されたりして(もちろん、キーワードを打ち込んで検索するとYahooで出てくる)。

あるいは、今のフリーメールにはスパムを登録して共有するという機能がついているので、そこに何らかの恣意的な操作が加わると全世界に影響が…なーんて考えすぎだよなぁ、多分。
でも、こんな話が真面目にあがってくるとグーグルゾンが単なる冗談じゃなくなってくるかもしれませんね。ただ、グーグルゾンの怖いところと言われていた、「個人の嗜好を読み取り、それに対応したサービスを提供する(それ以外の選択肢を表示しない→つまり無かったことになる)」というところはYahooとMSが合併しても微妙かも…。そういう点で個人の嗜好が如実に表れるAmazonのデータは最強ですね…。
あっ、そういえば今気づいたけどYahooの新トップページは個人の嗜好を繁栄する形に変更になりましたね…。

ただ、検索データから個人の嗜好を抽出し、MSNメッセの広告部分に表示するとかは可能なんだろうけど、そういう話を僕の知る限りあまり聞かないので、個人が特定できる形で検索データって収集を禁止されているのかな?
まぁ、ログインしていない状態で検索することが多いからかもしれませんが、ログインしている状態で検索してそれをAmazonみたいな感じでデータベース化するって技術的には可能だよなぁ(検索欄に過去の検索データが表示されるのは多分クッキーに書き込んでいるだけ?)。YahooもMSNもメールチェックするためにログインする人多そうだし。

そのうちYahooとMSで共通IDとか出来たりして(しかもそのIDがWindows購入時のシリアルナンバーの連携していて…海賊版対策も完璧!セキュリティの面でも安全!?)。基本的には、IP以外は個人が特定できないはずのインターネットにおいて、特定企業にだけ個人が特定されるとかいうことになったりする…わけないか。いくらなんでも考えすぎか。
さーて、世の中は便利になるのか、ますます管理社会化していくのか。これぞ、ユビキタス社会。もちろん、上の話はユビキタス社会インターネット版みたいな感じで書いてみた話ですが。
ま、技術的なところはよくわかりませんが、技術がどのような社会を人間を生み出すか、というところは今の人文系の学生にとって考えていくべき課題ではないでしょうか(←いい感じで当たり前のことを言って締めた)。
どーでもいいけど、マルクス的に言うならば、人間や社会は、技術に規定される、ということになるかも!?(勿論マルクスにおける下部構造は経済ですが・笑)。

ところで、こういう流れの中で、日本のYahooはどうするんだろ…完全に取り残されそうなんだが。

ジジェクがラカン解説本を出したという話を聞いたので、生協で買ってきた。まだ、序章しか読んでないけど、割合面白そう&わかりやすそう。
序章曰く、ラカン解説本って、ラカン理論や臨床に拘るからわかりづらいんであって、それを適用して考えた方がわかりやすいんだよ!っていう本らしい。
確かに、今、ラカンが多く参照されるのは社会批評や文化研究・文学研究の分野だし、本家本元の精神医学や心理学の世界じゃない。だから、ラカンの理論を学びたいと思っても、ぶっちゃけ臨床の話とか興味ない人多いだろうし(症例とかどーでもいい…)、この方法は斬新だし面白い。日本の思想家で言うなら、斉藤環よりは東浩紀的なラカン解釈になるみたい。
もちろん、客観的なラカン理論とは言いづらくて主観的になってしまうので、多分なかなかでなかったんだろうけど、ジジェククラスが出すなら文句無いだろ(笑)ということでしょうか。

ま、とりあえずラカンはワカランのでこの辺にしときます。それにしても、『新現実』本当にどこにも売ってないなぁ…。頑張れ太田出版。
  
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