最近、記事書いてなさ過ぎですよね。はい、自覚してます。はてなの方も始めたらはてなの方も書くことなさすぎでした。もっと、新聞・雑誌読まねば…。
でも、僕が読んでる雑誌ってのが『週刊ベースボール』だったり『F1速報』だったり『ダ・ヴィンチ』だったりと趣味誌ばっかりするという(笑)。
大澤真幸『不可能性の時代』を読んでたらちょっと気になったのでメモ程度に。
「物語消費」と「データベース消費」は説明面倒なのでググるなり、『動物化するポストモダン』を参照するなりしてください。
この真幸の意見は基本的には正しいと思う。実際、オタクじゃなくて大塚英志とかに全く触れたこと人が『動物化するポストモダン』読んでも、多分この二つの「消費形式」の違いを理解できないじゃないかと思う。実際、今のガンダムシリーズなんてガンダムデータベースからの組み合わせに過ぎないわけだし。「物語消費型」と「データベース消費型」の構造にそれほど大きな差異はないと思うし、延長線上で取っても問題ない。
でも、よくわからないのが、僕はこの二つの差異を「物語性」の希求というところだと思っていたんですよね。つまり、大澤真幸的に言えば「虚構の時代」的な「物語消費型」と、「虚構の時代の果て」(不可能性の時代?)としての「データベース消費型」という風に。
東浩紀の『動物化するポストモダン』に寄れば、大塚英志は『物語消費』が出てくる理由として「大きな物語の凋落とその補填」をあげてるんですよね。つまり、(リオタール的な)「大きな物語」のかわりとして、「ガンダムシリーズ」のような仮の「大きな物語」(仮の超越性、虚構の物語)が要求される、というのが僕の理解です。
ところが、ポストモダン世代(オタク第三世代)は最初からそのような「超越的な視点」自体を希求しない。だからこそ、「データベース」「大きな非物語」を必要とする、というかそれでOK。言わば「物語性」(要素同士の強い連関)がなくても問題ない。
※「大きな非物語」という表現も『動ポ』に使ってあります
「大きな非物語」と「包括的に過ぎて、物語的連関性を失った物語、物語としての外観を喪失してしまった物語」と何か違うんでしょうかね?よくわかりません。
文脈的には東浩紀にケチをつけたい、みたいな文脈なのですが、少なくとも『動物化するポストモダン』時点での東浩紀と意見はほとんど同じだと思うんですが、何なんだ。『動ポ』読む限り東も「物語消費型」の延長で「データベース消費型」をとっているようにしか見えないんだが…。
まだ半分しか読んでないので、後半で種明かしされる…?
実際、「物語消費」と「データベース消費」のそのわずかな差こそが、「虚構の時代」と「不可能性の時代」(まだ全部読んでないのでよくわからないけど)を分かつ重要なところじゃないんでしょうか。だからこそ、東浩紀はその実際の"差"以上に強調しているんだと思うんですがね…。
多分、この本は全部読んだ後に何か書くことになるかも。
でも、僕が読んでる雑誌ってのが『週刊ベースボール』だったり『F1速報』だったり『ダ・ヴィンチ』だったりと趣味誌ばっかりするという(笑)。
大澤真幸『不可能性の時代』を読んでたらちょっと気になったのでメモ程度に。
| 東は、このような「データベース消費型」と大塚が見出した「物語消費型」との断絶を強調するが、私の考えでは、むしろ、データベース消費は、物語消費の延長上に現れるものである。「大きな物語」といえども、所詮は特定の物語である。(中略、ガンダムシリーズも一つの物語に過ぎない、みたいなことが書かれる) 「データベース」とはこのような「メタ物語的な領域」として機能する、超包括的な「物語」なのではないだろうか。あまりに包括的なコンテクストを取った時には、必然的に、その内部の諸要素の強い連関性は失われる。つまり、「メタ物語的な領域」と呼んだのは、包括的に過ぎて、物語的連関性を失った物語、物語としての外観を喪失してしまった物語なのではないか。だから、それは、要素の単なる集合、つまりデータベースとして現れるのである。 大澤真幸『不可能性の時代』p.98より引用 |
「物語消費」と「データベース消費」は説明面倒なのでググるなり、『動物化するポストモダン』を参照するなりしてください。
この真幸の意見は基本的には正しいと思う。実際、オタクじゃなくて大塚英志とかに全く触れたこと人が『動物化するポストモダン』読んでも、多分この二つの「消費形式」の違いを理解できないじゃないかと思う。実際、今のガンダムシリーズなんてガンダムデータベースからの組み合わせに過ぎないわけだし。「物語消費型」と「データベース消費型」の構造にそれほど大きな差異はないと思うし、延長線上で取っても問題ない。
でも、よくわからないのが、僕はこの二つの差異を「物語性」の希求というところだと思っていたんですよね。つまり、大澤真幸的に言えば「虚構の時代」的な「物語消費型」と、「虚構の時代の果て」(不可能性の時代?)としての「データベース消費型」という風に。
東浩紀の『動物化するポストモダン』に寄れば、大塚英志は『物語消費』が出てくる理由として「大きな物語の凋落とその補填」をあげてるんですよね。つまり、(リオタール的な)「大きな物語」のかわりとして、「ガンダムシリーズ」のような仮の「大きな物語」(仮の超越性、虚構の物語)が要求される、というのが僕の理解です。
ところが、ポストモダン世代(オタク第三世代)は最初からそのような「超越的な視点」自体を希求しない。だからこそ、「データベース」「大きな非物語」を必要とする、というかそれでOK。言わば「物語性」(要素同士の強い連関)がなくても問題ない。
※「大きな非物語」という表現も『動ポ』に使ってあります
「大きな非物語」と「包括的に過ぎて、物語的連関性を失った物語、物語としての外観を喪失してしまった物語」と何か違うんでしょうかね?よくわかりません。
文脈的には東浩紀にケチをつけたい、みたいな文脈なのですが、少なくとも『動物化するポストモダン』時点での東浩紀と意見はほとんど同じだと思うんですが、何なんだ。『動ポ』読む限り東も「物語消費型」の延長で「データベース消費型」をとっているようにしか見えないんだが…。
まだ半分しか読んでないので、後半で種明かしされる…?
実際、「物語消費」と「データベース消費」のそのわずかな差こそが、「虚構の時代」と「不可能性の時代」(まだ全部読んでないのでよくわからないけど)を分かつ重要なところじゃないんでしょうか。だからこそ、東浩紀はその実際の"差"以上に強調しているんだと思うんですがね…。
多分、この本は全部読んだ後に何か書くことになるかも。











