どうも明日、進路決定のテストですが、全く持って今現在勉強していません。

どうやら、進路は国文になりそうです、はい。さて、春休みはギデンズ『社会学』(分厚い!)を読むべきか、イーグルトン『文学とは何か』を読むべきか…悩みます。

仕方ないので中間を取って、ブックオフで今更ながら『新世紀エヴァンゲリオン』のコミック版を立ち読みしていたKeiです(どこが中間なんだ?)。
髪をおろした風呂あがりアスカが素晴らしかったです(全く作品評価になってない!)。あとシンジくんが僕好みの屁理屈ツッコミキャラになっていたのが素晴らしかったです(ますますどうでもいい)。
本当は『攻殻機動隊』の原作を探したのですが、見つからなかったから、仕方なく読んでいただけです。

完全にどうでもいい出だしでしたが、本当はレスが目的です。コメント欄でみみっちくレスを返すのもアレだなぁ…と思いまして、管理人特権ということで新スレを立ててみました(スレって掲示板かよ!?*1)。手っ取り早くいえば、有瀬さん日記方式を採用しただけです。

*1…ブログ、SNS全盛時代に乗り遅れているKei故に…。未だにmixiやってないし、さらにいえばトラックバックの意味が未だによくわからん。


………難点は双城さんが気づいてくれるか、なんですが。

>双城さん


>「仲間」の認識が「愛」の認識とイコールにならないのではないか、ということでした。忘れてました(ぉぃぉぃ
>ですから、こうして従来のプログラムのみによって「仲間」の認識が可能ならば、「仲間の認識=愛の認識」とはならず、上のような私の反論がなされるわけですが……。

さすがですね、双城さん。適当に結論ありきで論理をすっとばした所を見事に突っ込んできました。ええ、おっしゃる通りです。

双城さんのおっしゃる通り、プログラムによって簡単に「仲間」という認識は当然可能だと思います。実際、『攻殻』においても軍の無人ヘリコプターのAIは味方は攻撃せず、味方ではないヘリを自動的に攻撃していました。
…ただ、タチコマがどう認識しているかは、タチコマ本人(?)しかわからないので、正直言い訳(?)も何も思いつかない、というのが実情です。

でも、これではタチコマが可哀想だ!ということで、三度結論ありきの無駄な抗弁(別名:言い訳)を。
(大体、こんなみみっちいブログで勝手に持ち出した俗説で「ゴーストはない」なんて結論を導いた際には、タチコマが怒って、ネットを通じてパソコンハックをしかけてきそうですし←電脳化はしてないので、ゴーストハックは無理と思われるので)。

おそらく同志打ちしてはならないので、そのような識別プログラムは当初からタチコマに搭載されているとは思います。でも、タチコマは改めて「仲間」(というか友達というか家族というかそういう何とも言えない人)という概念を認識し、それでバトーや少佐などを、そのように認識しなおしたのでないでしょうか?
根拠としては、ええと名前を思い出せないのですが、タチコマが家出(?)をした際に会った女の子。その後の回で「もう一回会いたい」とタチコマが言っているんですね。
つまり、その時点ですでにタチコマは"アナログな仲間"(と呼ばせていただきます)という認識を、あくまでも機械的なプログラムのみで行っているわけではない、と言えると思います。

しかしながら、前述のような"アナログな仲間"という認識をタチコマがしていようとしまいと、双城さんのおっしゃった通り公安9課メンバーを"機械的に仲間"としてプログラミングされていれば、「ロボット三原則」に基づいて、自己犠牲は当然だ、という結論になってしまうんですよね…。

やはりタチコマに「ロボット三原則」はプログラムとして組み込まれていない、というのが結論なんでしょうか。(もともとの問題は「ゴーストの有無」だった気もするのに、結論がずれてる!)

実際、双城さんから指摘されまして、考えまくったのですが*2、タチコマが「ロボット三原則」に当てはまる(ような)行動*3をしているのは確かです。
「人間」にとっては「自己犠牲」は尊いことでも、「ロボット」にとっては当たり前。つまり、「タチコマ」がゴーストを獲得した上での「自己犠牲」か、ゴーストを獲得していない状態での「自己犠牲」かで全く意味が変わってくるわけですよね。つまり、プロトは「自己犠牲」から「ゴーストを得た」と判断したのでしょうが、よく考えていくと「自己犠牲」という行動からは「ゴーストを得た」という結論を導き出すのはできないのかもしれません。
(言うまでもないのですが、他のシーンから「ゴーストを得た」という結論を導き出す可能性は秘めています)。

*2…記事の投稿時間が示すとおりです。面白い思索ではあるので、お気になさらずに。明日、試験があったりしますが(笑)
*3…留保点もあるのでぼかしておきますが


うーん、でもやっぱり気になります…タチコマのゴースト問題。「攻殻」の一つのテーマに「人間/非人間」の境界というのはあると思うので(特に押井版)、製作者側(2ndから押井が加わってますし)も先例であるアシモフの「ロボット三原則」へ何らかの意識はあったと思うのですが、その辺がうまく見えないのかもしれません。

…ひょっとしたら、タチコマの「自己犠牲」は「ロボット三原則」のアンチテーゼとして書かれたのかもしれません。ロボットの「自己犠牲」を「ロボットとして当然か」として処理するアシモフに、「こんな自己犠牲でも?」ということを示したかったのかも…。



作品分析に行き詰ったら、製作者の意識に行くのは逃げですかね…。

ちなみに、今回は考えが行き詰ったので、グーグル検索をかけてみたら2chに「タチコマにロボット三原則は入ってるのか?」というスレがあったようです。もうお蔵入りしていて、中身はわからないのですが…5レスしかついてなかったので、見れたとしてもたいした事はなかったかもしれませんが…。
  
コメント
人間はタチコマの夢を見るか?
おお、わざわざ新スレ(便乗)を立てていただくことになるとは、これは恐縮です。

>明日、試験があったりしますが(笑)

うわ、そんな大事な時期に申し訳ないです^^;
ご迷惑なようなら、無理して返信していただく必要はありませんよ。そこらへんはネット上でのコミュニケーションとして、心得ているつもりですから。

>タチコマが怒って、ネットを通じてパソコンハックをしかけてきそう

ふははは、大丈夫です。我が攻性防壁を持ってすれば、ハックしてきたタチコマのデータを丸ごとデリートしてしんぜましょう! ゴーストが無いと結論されたのならタチコマなんぞ……!!(うわ酷過ぎ、妄想が(自爆)

>”アナログな仲間”としての再認識によるゴースト獲得の可能性

ああ、そういえば、家出みたいな話がありましたっけ。なるほど、「もう一回会いたい」ですか。確かに、それは考えさせられますね。

どうも、私も少し考えましたが、これはタチコマがゴーストを獲得ていなければできそうにない言動のように思えます。「特定個人への執着」というのは、機械的な執着である場合、利害というものが関係してくると思いますが、タチコマが執着心を持つに至った少女からは、タチコマが得られる利益というものが思いつかない。思いつくとすれば、それは感情的なものであり、それはおそらく、ゴーストなくして感知できるものではない。となると、タチコマはゴーストを保有している、ということになる……。と結論するには、まぁやはり証拠不足的な面がありますが、どうもゴーストを持っていそうだ、とは言えそうですよね。

しかし思ったんですが、これはつまり、タチコマと人間の差とはいったい何なのか? ということに問題が切り替わってきそうじゃありませんか?
タチコマの見せた「特定個人への執着」の言動が「愛の認識」であり、ゴースト獲得の可能性を示唆するものであるとするなら――ここまでタチコマが人間に近い言動を取れるとなってくると、じゃあ「人間」って何だよ、「人間」と「タチコマ」が違うって何で言えるんだ? という疑問が湧いてくるんですよね。
今までは無条件に、人間は当然のごとくゴーストを保有しており、その確信の存在ゆえに、ゴースト保有の確信なきタチコマたちとは一線を画してきたわけですが、こうなってくると、人間たち自身のアイデンティティすら揺らいでくることになる。
前段で私は、「タチコマはゴーストを持っていそうだ」ということを述べましたが、このような曖昧な言い方しかできなかったのは、タチコマが私自身ではないからです。私自身、つまり「主観者」ではなく、私たちにとってタチコマは「被観者(場当たり的な造語ですが、見る者と見られる者における「見られる者」の意。他に良い言葉あります?)」という立場にある。
もし私たちがタチコマの主観に立ち、タチコマとしてあり、そしてタチコマとしての社会の歴史において、自らはゴーストを保有していることを当然のごとく認めてきた積み重ねがあったとしたなら、私たちタチコマは、自らがゴーストを持つかどうかなど、不安に思わなかったでしょう。
劇中においてタチコマたちが、自らがゴーストを持つか否かを疑問視するのは、そういった社会的背景が用意されていなかったためであると考えられます。

>「攻殻」の一つのテーマとしての「人間/非人間」の境界

ここまでの話をまとめて考えてみると、個人的には、なんだか劇場版GHOST IN THE SHELLを私が見終わったときの印象に帰着してしまった気がしています。
つまり、このまま攻殻機動隊の世界のごとき科学技術を手に入れるまでに世界が進歩すれば、人間と非人間の境界が極めて曖昧になっていて問題化するのだなぁ、と。
私にとって劇場版GHOST IN THE SHELLはつまり、そんな問題提起をしてくれるだけで、その問題に対する解答を示してくれるものではなかったということです(これじゃエヴァとおんなじだ、と思ったりする)。

これは私の持論ですが、あらゆる「作品」を批評するにおいては、まずその作品が、作品内で自己言及していることは全て認めて、その上で批評してみるという姿勢が、「作品のテーマ」を批評するために必要だと思ういます。
しかし、タチコマのゴースト問題については、果たしてこのように、作品全体のテーマを捉えなおした後に考えるべき問題なのか、それとも切り離して単体の問題として考えるべきなのか、よく解りません。
作品全体のテーマを含めて考えるならば、私はタチコマにはゴーストは宿っているのだと思います。ただしこれは、製作者の「設定」として、です。これは正確な分析とはいえないでしょう。ただ、造物主が被造物について言うことは無条件に絶対的ですから、或る意味では間違いのない答えだとは思いますがね。
でも、こんなやり方じゃあ、どうも面白くない。納得がいかない。

とは言うものの……ここまで打ち込みながら考えて、やっぱり私には解りません。
う〜む。なんだか、めちゃくちゃ基礎的にしてクダラナイ哲学問答をしなくちゃならないような気がしてきましたよ。

「ここに水の入ったコップがある。果たして本当に、このコップには水が入っているのだろうか?私は椅子に座りながらそれを眺めているが、この状態のままそれを確かめる術はあるのか?」

嗚呼、そんなもん知るか!!(爆)
---------- 双城真也 [ 編集] URL . 02/20, 23:31 -----
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