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双城さんへの返信

2007-06-10(Sun)
さあ、今日は『らき☆すた』の放映日!F1カナダGP!
思いっきり夜更かしになりそうな予感です。北米ラウンドは時差の関係で放送が深夜になるから嫌なんですよね…。PPはハミルトン、2番手がアロンソ。3番手にBMWのハイドフェルド。フェラーリがBMWに負けるとは…決勝が楽しみです。ちなみに、我らが佐藤琢磨は11番グリッド。ポイントはちょっと厳しいそう?またフィジケラがピットストップ作戦ミスってくれれば(笑)

ようやく、明日から大学が再開です。正直言ってだるいです(笑)。

>双城さんへのレス
→双城さんのコメントへのリンク

色々ありまして(メッセとか飲み会とか・笑)返信が遅れた事をここでお詫びします。

正直、僕も文芸批評も東の言うデータベース化もよく理解しているとも思えないので、事実誤認等がありましたら指摘してください。

先に結論から言わせていただきますが、コードとデータベースはある意味別次元の話ではないかと考えています。

端的に言わせて貰えば、東浩紀のポジショニングの問題だと思います。東浩紀はまず文芸評論家ではありません。一応専攻は表象文化論のようですが、しばしば社会学に近いポジションから批評を行っています。

データベース・モデルという概念は、近代的な「大きな物語」が生きていた時代に考えられてきたモデル(ツリー・モデル)の対比として、「大きな物語」が崩壊したポストモダンにおける作品の成立モデルとして出てきたわけです。こういう社会学的な見方が(あるいは表象文化的とも捉えることが可能かもしれませんが)前提としてあるわけです。

確かに、これはコードの多用という現象を現しているのかもしれません(そのあたりは色々考えてみなければならないとは思います)。しかし、コードの多用というだけでは全体を通して捉えるモデル図にはならないのではないでしょうか?(それでは一時期の作品の一つの特徴を捉えただけに過ぎません)
つまり、全体を捉えるモデル図としてデータベース・モデルというのが必要となり、その全体像から"データベース化"という現象を捉える、というポジションを東浩紀はおそらくとっているのだと思います。

つまり、個別の作品分析をベースとした文芸批評と、作品を社会の表象として捉える東の「データベース化」とでは視点の違いがあるのではないでしょうか?

従って、文芸批評のコンテクストか社会学的なコンテクストで使うかによって、このように用語が変わってくるものだと思います。

よって、「コード」と「データベース」を双城さんは比較されていましたが、そもそも比較可能な概念だとは思えません(もし可能であるとするならば、このように原点まで辿り着いた比較しか可能ではないと思います)。

一応、拙稿は正直そういうところを余り意識していなかったので(笑)、双城さんの指摘はある程度有効性を持つと考えています。

>Keiさんがつまずきなくファウスト組の参照しているデータベースを「オタクデータベース」である、と言っている点が、私には理解できませんでした。

データベース・モデルというのは元々「大きな物語」が崩壊した後、物語が生き残るための手段だと思います。つまり、データベース・モデルという図式自体はオタク特有のものではないと思います(オタク文化において顕著なだけで)。しかし、データベースというのはある程度共有されないと有効に機能しないわけです。ようは、オタク文化以外にもデータベース・モデルは存在しえる、つまりそれが「ミステリ・データベース」だと考えています。しかし、それは東が分析している「オタクデータベース」(東自身はこの用語を使っていませんが、東が分析しているデータベースです)へと移行したのが「ファウスト組」だと考えています。

う?ん、回答になったでしょうか…?
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ご丁寧にも、ブログ記事一回分を割いてまで返信していただきありがとうございます。
しかし、私のコメントですが、書き込んだ後で読み返してみたら、かなり支離滅裂な感じでしたね(汗)
いやぁ、それをよく読解していただけたと思いますよ。自分でも何を反論の主旨としているのか分からなくなりそうな文章でしたから(ぉぃぉぃ
ええと、前回のコメントで私が言いたかったことというのは、Keiさんは分かっていらっしゃるとは思いますが、ここに改めてまとめさせていただき、それをもって更なる反論に出たいと思います(まだやる気なのか)。

と、その前に、一箇所引用反論(ぇ

> コードの多用というだけでは全体を通して捉えるモデル図にはならないのではないでしょうか?(それでは一時期の作品の一つの特徴を捉えただけに過ぎません)

そうでしょうか?
私は別に、「データベース・モデル」と同じように、「コード・モデル」という図式を作成しても問題ないと思います。
それは、

コードA→小さな物語①
コードB→小さな物語②
コードA&B→小さな物語③
コードC&A→小さな物語④
コードB&A→小さな物語⑤
etc

という風に(わかりにくいですが)、東が『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)のp.79図10bで示した「データベース消費の構造」と同じ類のものが図示できると思います。
私は、「コード」と「データベース」を、その利用のされかたという類似点を見て同じものだとは言わず、その利用される意図、またはその結果の相違点を見て、同次元のものにして別概念である、と言いたいのです。

では、そのことを説明するためにも、私の考えをまた述べたいと思います。

私は「コード」と「データベース」はまったくの別概念であると考えています。
それは、文学的見地から見た場合のAの名称が「コード」であって、社会学的見地から見た場合の同じくAの名称が「データベース」であるというような、観点の違いから生じる名称の違いという意味ではなく、
「コード」(この場合は「ミステリコード」に限定)――それを参照して作るものというのは、「論理のアクロバット(言い換えれば『どんでん返し』)」を実現すべく、それを引用することによって読者に或る種の錯覚(たとえば「孤島」というコードを用いることによって、「絶対脱出不可能」を読者に思い込ませ、実は犯人だけは、別の島ないし大陸との往復を繰り返していた、というトリック、また、「名探偵」というコードを用いることによって、その作品の探偵役はその「名探偵」であると思い込ませ、実はその助手こそが本当の探偵役だった、などというトリック)を成功させることができる。
つまり「コード(ミステリコード)」とは、≪雰囲気作りの材料且つ伏線にも成り得る素材群≫のことを意味する。
次に「データベース」ですが……Keiさんも言及しておられるように、これのミステリ版、すなわち「ミステリデータベース」は、未形成であると考えられます。
それは将来作られうるが、現在ある「データベース・モデル」は、「オタクデータベース」しか存在していない。そして、それ故かどうか、「ファウスト組」が参照したデータベースは「オタクデータベース」だった、ということですよね。
では「データベース(オタクデータベース)」の特徴とは何か。
それを参照して作るものというのは、「萌え」などの、その引用単体で作動する「エンターテインメント」なのではないかと思います。
残念ながら、それを実際に参照して作られた作品、すなわち「ファウスト組」の作品というのを、私は一作も読んだことが無いため、現場の実際がどうなっているのかは憶測するしかありません(そんな輩がこんな反論してんじゃねぇよって話ですよね^^;)。

※↓追記↓※
よく考えたら、佐藤友哉の『フリッカー式』を読んだことがありました。ですがまぁ、これ一作の読書経験が加わっただけでは以下の論に影響はないと思いますので、編集はこの追記に止めたいと思います。
※↑追記↑※

それに最も近い作品の読書経験としては、森博嗣の『すべてがFになる』ぐらいでしょうか。「西之園萌絵という登場人物の、その名前、そして言動」、また、「ガンダムオタクの技術者という登場人物」などに、わずかではありますが、オタクデータベース参照の萌芽を認められないこともないと思います。
まぁ、私の「ファウスト組におけるデータベース参照の実際」観というのは、以上のたった一作の読書経験からの類推になるわけで、非常に頼りないものなわけですが、それによると、やはりデータベースとは、≪その引用単体で作動するもの、そうすることによって、読者に何某かの感慨を与えることを狙うことを可能ならしめる素材群≫のことを「データベース(オタクデータベース)」であると、定義したいと思います。

以上の定義を踏まえ、「新本格作品群」「ファウスト組作品群」の違いを検証したいと思います。
そのためにまず、「コード」と「データベース」の利用例を列挙し、その中でどれが「新本格」に該当し、どれが「ファウスト組」に該当するかを考えたいと思います。

●コードを雰囲気作りと伏線のために利用した作品⇒新本格
●データベースを利用し、読者に何某かの感慨を与えることを狙った作品⇒オタク系文化作品全般
●データベースの参照だけでなく、コードをデータベース的に利用し、読者に何某かの感慨を与えることを狙った作品⇒ファウスト組

さて、これによって私が何を示したいかはお解かりいただけますでしょうか?
つまり、私の考えでは、「ファウスト組」の創作態度というのは、「オタクデータベース」をそのまま参照している【だけではなく】、「ミステリコード」を「データベース」的に応用参照もしている、ということなのではないかと思うわけです。
もちろん、「オタクデータベース」の直接参照もしているでしょう。
萌えな登場人物が描かれるようになったということは、なんとなく分かりますから。
しかし、それだけではない。
清涼院流水の『コズミック』という小説では、大量の「名探偵」と、大量の「密室」が登場するらしいですね(参照『ゲーム的リアリズムの誕生』東浩紀、講談社現代新書)。
しかし、それによる「論理のアクロバット」は…(私が読んでいないために知らないだけで、もしかするとあるのかもしれませんが)…無い。そうではなく、それによってただ読者を惹きつけている、またはそれによって、東が分析したように、「記号がただちに情動に直結」(前掲書p.300)した表現を用いている。
これが「コードのデータベース的利用」です。
すなわち、「ファウスト組」において、「コード」と「データベース」が、はっきりと分かれた形で併存している。
Cの中にあるA(またの名をB)。という形でなく、
Cの中にあるAとB。という形で。
私はこの状況分析の結果から、「コード」と「データベース」は同次元の概念であり、『新本格』においては「コード」が参照され、『オタク系文化全般』においては「データベース」が参照され、『ファウスト組』においては「
データベース」の参照と「コードのデータベース的利用」が見られる、という結論を導きたいと思います。
この「ファウスト組」の特徴は、「ファウスト組」が、もとは「新本格」からの派生的な形で発生したことが原因であると考えられると思います。これを、「コード」の旧来の利用法(ミステリコード)がまだ捨て切れていないと見るか、「コード」の新たな利用法(ミステリデータベース)の発展途上と見るか、それは今回の論の主旨から逸れますので言及にとどめたいと思います。
長くなりましたが、ここでKeiさんの評論に対する反論の結論を述べたいと思います。
すなわち、「新本格」は旧来の解釈通り「コード」を参照した作品群であり、「ファウスト組」は「コード」と「データベース」を両用した作品群である。よって「新本格はライトノベル的」とはならず、「ファウスト組がライトノベル的になりつつある」という見方を提示したい。

以上ですっ!

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Author:Kei
文学部卒業して、冴えない仕事を冴えない顔でやってる。スバル持って北海道に移住したい。

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