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『ひぐらしのなく頃に』考&双城さんへの返信3

2007-06-24(Sun)
どうも、「ひぐらしのく頃に」をブックオフで立ち読みしていたKeiです。
マンガ版みおんが何となく可愛いくなってる(笑)。アニメ版だとそんな感じしないんだけどなぁ…。原作の絵は…正直ビミョー。

どうでもいいですけど、『ひぐらしのく頃に』って何がどうしたいのか、個人的にわからないんですよね…。はっきり言って、宮台とかが見たら「歴史性を意識してなーい!」とか言って散々けなしそう(笑)。

昭和58年という時代設定をしながら、どう考えても携帯以外は、ほとんど現代の話だし。昔は良かった、的なオジサンっぽい発想で出来ているわけでもないし、何で昭和58年という時代設定にしたんだろうなぁ…。

それに加えて、やたらと毎エピソードの冒頭部分(笑)に出てくる「ヒナミザワ」万歳思想は何なんだろう…。いや、作者は想像ですけど、多分こういう田舎に住んだことなさそう…。なんか、発想がすごい都会的だし。田舎暮らしの面倒なところ(農業関係の共同作業とか)が全然描かれてないし、大体いくら分校でも20人いたら、分裂クラスになるだろ(笑)。正直、白川郷というモデルが普通の田舎じゃないよ、白川郷は色々とレアケースだろ、みたいな(笑)。

そもそも、圭一くんはやたらと「仲間」に何で拘るんだろうね…。いや、あんなど田舎で村八分にでもなろうものなら大変だけどさ(笑)。その割りには、みんな殺そうとするよなぁ…。というか、普通の人なら、どんなに喧嘩しても、普通は惨劇を回避できるよ(それでは物語にならない・笑)。
あ、ヒナミザワでは村八分になるか、殺しあうかという選択肢しかないのか。都会みたいに引きこもるとか、シカとするとかいう選択肢はないんだ?、なるほど(勝手に納得する)。

どうでもいい、「連載ゲーム的リアリズムを検証するシリーズ第一弾「『ひぐらしのく頃に』考」でした。
おじさんがいいです(おじさんって富竹さんのことじゃないよ?)。あと、「嘘だっ!!」モードのレナが好きです。でも、グロシーンが楽しみなんで(えっ!?)、アニメ二期見ます。
ちなみに、「連載ゲーム的リアリズムを検証するシリーズ」第二弾は東浩紀先生も大注目の「Air」です。というか、「鳥の詩」が素晴らしすぎます。





嘘だっ!!


↑すみません、これがやりたかっただけです。本当はありません。

・コメントレス
みなさん、コメントありがとうございます。

双城さんへの新本格関連論争へのレスは下の方でまとめています。

>元ネタ

情報提供ありがとうございました。というか、ニコニコのせいでネタ画像、動画は慣れていたけど、久々にヒットしました。

>日本コナタヽ(=ω=.)ノ

…。

>有瀬さん

>ショコタンの答えが「第三新東京市」でした。

あう。
うわー、さすがしょこたん。和田アキ子に綾波レイのコスプレをさせるだけはあります。

>でも、それ見て爆笑しているのは僕だけでした(笑)。

エヴァでもやっぱりそんなものなのか。どうせならマニアックにしょこたんに第二新東京市とか答えて頂きたかったところですね(いや、マニアックすぎだから)。

>双城さん

>さすがは自称現代視覚文化研究会員ですね(ぉ

エヴァファンには常識です。

>とすると、そちらの某日本を代表する大学に通う学生は、皆さん「らき☆すた」の大ファンであると……。

皆さんかどうかはわかりません。たまたまチョココロネはこの大学では人気商品で、需要に供給が追いついていないだけなのかもしれません。
でも、論理的に一つだけ言える事があります。この写真を撮った人は、『らき☆すた』の第一話を見ているこという事です。

>そのオタク大国日本を代表する大学であると、そういうわけですか。

ああなるほど、この大学はオタク大国を代表するという意味で、日本を代表するという意味なんですね。それは気づきませんでしたねー(違。

・新本格ミステリ関連

前回のコメントの争点をまとめると、「コード」と「データベース」の展開の違い、ということになると思います(毎回まとめないと、段々わけがわからなくってくるので)。

いきなり最後からの引用で申し訳ありません。

>(つまり「論理のアクロバット」)が本格ミステリであり、その点が、読者の「模擬展開」に応えようと――合致させようと――データベースの参照に尽力するライトノベルとの違いと言えよう。)

これ読んだ時に、心の中で「ブラボー」と叫んでました(何でフランス語?)。
そう、それが"新本格ミステリ"と"ライトノベル"の違いなんだよ、よく言ってくれた、と心の中では言っております。

実際、双城さんの言いたい事はよくわかりますし、一つの分析としては間違えてはないと思います。

>しかし、現場は”孤島”であり、そこから読者たる私は、「犯人はこの島からでていけない。でていければ犯行は容易だが、でていけないのだからこの犯罪は不可能犯罪なのではないか。犯人が誰かなんてさっぱりわからない」という考えをもつにいたる(重要なのは、”孤島”というコードが登場してからここまで、未だ”孤島”の「展開」は果たされていない、ということ)。

「犯人はこの島からでていけない。でていければ犯行は容易だが、でていけないのだからこの犯罪は不可能犯罪なのではないか。犯人が誰かなんてさっぱりわからない」というのは"孤島"の展開ではないのでしょうか?
ある意味、"孤島"という場で殺人事件が起きる、という自体にデータベースの参照していると思います。(よくミステリファンも毒づいていますが)「こんなクローズドな環境で殺人を起こす奴はいるかよ」と普通は考えます。
しかし、そのクローズドな環境において、基本的に考えられない殺人、というストーリーを僕たちは受容している。それを支えているのが、ミステリデータベースを参照すると言う形での本文中の用語でいう"ミステリ的リアリズム"ではないか?というのが僕の主張です。

つまり、"孤島"を論理のアクロバットのため"のみ"にあるとは考えません。勿論、そういった意味もあります(だから双城さんの意見は間違えてないと考えます)。
しかし、何故ここに来て"孤島"なのか、という非現実的なタームを持ち出したきたのか、という問題があります。
それなら、何らかの理由によって出入りが禁止されたビルの中でもいいじゃないか、という意見も当然出てきます(石持七海みたいな)。というよりも、社会派が当時流行していたことを考えれば、そっちの方が自然な感じすらします。
でも、実際綾辻やアリスで使われたクローズドサークルは、"孤島""嵐の山荘"などの古典的なものだったのか?
という答えとして、データベースを参照している、という解答ができるのではないでしょうか?

返事が遅れて申し訳ありません…。
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何度も長文による返信というお手間をかけてすみません。そしてありがとうございます。
それでもまだ懲りずに返信をしたいと思います(しつこい奴)

>クローズドな環境において、基本的に考えられない殺人、というストーリーを僕たちは受容している。それを支えているのが、ミステリデータベースを参照すると言う形での本文中の用語でいう"ミステリ的リアリズム"ではないか?というのが僕の主張です。

>実際綾辻やアリスで使われたクローズドサークルは、"孤島""嵐の山荘"などの古典的なものだったのか?
という答えとして、データベースを参照している、という解答ができるのではないでしょうか?

ええっと……私は今まで、その違いについて説明してきたつもりだったのですが、やっぱり文章が下手だったようですね(汗)
同じ主張を繰り返すことになりますが、なるべく、更に分かりやすくなるよう努力したいと思います。

「コードを参照する」ことと、「データベースを参照する」ことというのは、別物ですよね。では何故これらが区別できるのか?
それは、これらの行為(言語)を下位カテゴリとして分類・統率する上位カテゴリの存在があるからと言えるでしょう。
その上位カテゴリとは、「参照する」という行為(言語)です。
我々が何かを参照するとき、その方法は様々ありますが、そのうちの一種類が「コードを参照する」という参照方法であり、また別の一種類が「データベースを参照する」という参照方法であるわけです。
しかし、「参照する」という行為をしている段階では、その対象が「コード」だろうが「データベース」だろうが、同じ「参照する」という行為をしていることに変わりはありません。
ですから、「参照する」という段階では、まだ「コード」と「データベース」を区別することは不可能なのです。
そこで私がそれらを分類するために持ち出してきたのが、「展開」の違いだったわけです。
コードを、またはデータベースを、参照した後にどう展開するか?
この違いを見分けることが、コードとデータベースを区別する方法なわけです。
その方法は、前回のコメントで書いたような、「未来の展開」と「過去の展開」という違い、そして「模擬展開」の使用用途の違い、によって説明しましたので省きます。

Keiさんは、「参照する」という行為はデータベースにしかできないような風に書かれていますが、私はそうは考えないわけです。
それと、私も、コードを「論理のアクロバット」のため”のみ”にあるとは考えてません。これもずっと通して説明してきたつもりだったのですが……。
前にも書きましたが、コードとは、≪(娯楽を目的とした)雰囲気作りの材料且つ伏線(論理のアクロバットの材料)にも成り得る素材群≫であると私は定義しています。
この定義の中の前提として「(娯楽を目的とした)雰囲気作りの材料」というものがあります。この点に注目してください。
これを言い出すとデータベースとの違いが分からなくなる、とKeiさんは仰られましたが、この違いは以前にすでに述べたような、「娯楽」を単体で作動させることができる(=データベース)か、「娯楽」を目的とした雰囲気作りをめざす(=コード)か、という違いによって説明しました。
これを言い換えるなら、データベースは「完成された娯楽」を、そしてコードは「未完成の娯楽」を参照している、という違いで言い表せると思います。
いわば「データベース」の参照とは、一個の完成された絵画をそのまま持ってきて見せつけることですが、「コード」の参照とは、聖セバスチャンの殉教であったり、河を流れるオフェーリアであったり、フローベール著の『聖アントワーヌの誘惑』という書物であったり、もっと分かりやすいところからもってくるなら、キリスト磔刑のイメージであったり、最後の晩餐のテーマであったりするわけです。
一個の完成された絵画、たとえば『聖セバスチャンの殉教』という絵画があります(この場合作者が誰かはどうでもいいので無視してください^^;)。これを三島由紀夫はその小説『仮面の告白』で紹介し、その絵画に描かれた聖セバスチャンの肉体美を、同性愛者的視点から丹念に分析、熱狂しています。ですが、『聖セバスチャンの殉教』という絵画作者が本来目指していたものと、三島のこの分析は、おそらくは相容れないものでしょう。ですが、こういう三島の分析は無意味ではないことは説明するまでもありませんね。芸術作品とは、そのような作者の意図を逸脱した解釈でもって分析されうる可能性を秘めた、多様な姿を見せる表現形態であると考えます。
一転、作者の立場に立って考えてみましょう。
『聖セバスチャンの殉教』という絵画は、従来既に確立されていた「聖セバスチャンの殉教」というテーマを用いて描かれた絵画です。この、描かれる前の段階の「”聖セバスチャンの殉教”というテーマ」、これがコードにあたるわけであり、これを参照して『聖セバスチャンの殉教』という絵画を完成させることが、コードを参照して作品を作るという行為に該当するわけです。
つまり、三島が分析した『聖セバスチャンの殉教』これは一個しかない。ですから、これを参照して――つまりこれがデータベースとして参照する、ということになりますが――作る三島の熱狂的分析もまた一個しかない。
しかし、「聖セバスチャンの殉教」というテーマを参照して――つまりこれがコードとして参照する、ということになりますが――作る『聖セバスチャンの殉教』という絵画は一個ではない。作者によってそれは様々に見せる姿を変えるわけです。現に三島の参照した『聖セバスチャンの殉教』という絵画と、オディロン・ルドンの『聖セバスチャン』という絵画は、同じ「聖セバスチャンの殉教」をテーマにとっていながら、見せる姿がまったくの別物になっています。たとえ三島がルドンの『聖セバスチャン』を見たとしても、同じように熱狂的な肉体礼賛は謳えなかったでしょう。
以上と同じことが、本格ミステリにおけるコードと、ファウスト組におけるデータベースの違いにも言えると思うのですが、以上の説明中でお気づきでしょうか? データベースは読者の視点によっており、コードは作者の視点によっているということに。
このことは、データベースを参照して作る作品が、二次創作的であることを示唆する特徴といえるのではないでしょうか。
Keiさんが新たに、著作権についての記事を書かれていますが、そのことにもこれは関連してくるのではないかと思います。
ニコニコ動画は読者のコメントが付されることによって新たな”作品”に成り代わる。これは三島が行ったことと同じですね。これによって三島は男性の同性愛的肉体礼賛を行い、それによって『仮面の告白』の肉付けに成功していると思いますが、この部分だけ挙げるなら、これはデータベースを用いて作られた作品であると、言えると思います。
それに対するなら、ニコニコ動画にアップされているMADムービー、これはコードを参照して作られた作品であると言えるでしょう。大雑把に言って、MADムービーとは、既にテレビアニメで放送されたアニメーションの一部を切り抜き貼り付け音楽を足し効果を足し演出することによって作られていると言えると思います。それは作者の立場にある人々によって色々な、切り抜き方、貼り付け方、音楽選曲のセンス、演出技術の違い、が現れる、多様な作品を生み出すことになるでしょう。こうして”完成された作品”にコメントを付し、”新たな作品”と化すのが読者・視聴者の立場にある人々であり、彼らが「データベース参照者」であり、彼らに餌を撒いてやるのが「コード参照者」であるわけです。
しかし、その立ち位置が崩れてきている、今や「データベース参照者」こそが創造の担い手として脚光を浴びている、というのが現状であって、それが「データベース」という新たな概念を導入して分析する必要性を迫ってきた、というわけなのでしょう。

以上、毎度の長文もそうですが、なんだか話の矛先があっちへいったりこっちへきたりしているようで解りにくいと思いますが、なんとか理解していただければ幸いです^^;

本ブログはXP+IE7、Firefox3、Safariで一応確認しています。
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Author:Kei
文学部卒業して、冴えない仕事を冴えない顔でやってる。スバル持って北海道に移住したい。

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