久々にレビューと行きましょうか。
※「ジェンダー論をオタク論に応用してみた」の「コメント返信」はこれの1個下に別記事として書いています。
とりあえず、セキュリティ論として斎藤環がなんかの本に引用していて、読もうと思っていてすっかり忘れていていた本。2003年に出た本ですからちょっと古いですね。
簡単に言えば、セキュリティ論、動物化する社会における権力論ですね。現代においては東浩紀の言葉をかりれば「大きな物語」――大澤だと「第三者の審級」、ラカンだと「大文字の他者」――の凋落した社会においてどうするか?という話ですね。
ここで問題になるのは「規律訓練型の権力/環境管理型の権力」の二項対立。前者は家庭のしつけや学校教育などをとおして、「超自我」を形成させるような権力。後者は個人の内面に介入せず、その行動をコントロールする権力。ようするにマックの椅子が固くして、回転率をあげるという話です(←これが動物的)。専門用語つかうと「パノプティコン/監視カメラ」とういことになります。
そして今問題なのが、「規律訓練型」→「環境管理型」にシフトしているということなんですね。
現代の一つの問題として「島宇宙化」(by宮台)ということがあると思うんですよね。簡単に言えば、一人一人が趣味のコミュニティに閉じているっていう感じですかね。オタクとかがいい例ですね。「大きな物語」が崩壊した後の社会においては、そうなるというのが『動物化するポストモダン』の議論なわけです。
これでは管理的出来ないから、「環境管理型」という権力の構造が生まれたわけです。さあ、そう言う中で「自由」をいかに考えていこうか、というのが本書の問いです。
で、こういう状況の解決策みたいに考えられているところをちょっと引用。
「偶然的な「私」、いつ他者になってしまうかもしれない存在としての「私」です。私を「私」にする主体的な刻印の「私」ではなく、その裏側にいつもつねにすでに誰かと交換可能になっているような存在、弱い受動的な「私」がある。」つまり、これが「共感」に繋がる、というんですね。
「匿名になれるという想像力がなければ、人は普遍的な共感を、言い換えれば社会全体を見渡す視点を手に入れることが出来ないのではないか。」
と言っています。
…正直どうですか?皆さん。僕的にはこういう発想は無かったなぁ…。
僕が「高度資本主義社会の中で生きていくために」で掲げたテーゼって「交換可能性」が前提となっている社会で、どう生きていくか?(いかにアイデンティティを築いていくか)だったんですよね。多分みなさんに伝わってないと思うけど(笑)、「私が死んでも変わりはいるもの」っていうのはそういうのを意識のもとで、ずっとトップに掲載していたんですよ(決してエヴァ好きだからではない)。
これに関して面白い指摘があって、北田アキヒロが「パノプティコンから見られていない不安がある」って言っている(らしい)んですよ。「大文字の社会的視点から見られ続けることで、はじめて主体=人間になれる。」と。つまり、これは環境管理型にシフトした社会においては、逆にアイデンティティが築けない。だから、「見られたい」「現れたい」(例えばブログとかSNSとか)に繋がるわけですよ。
つーか、完全に俺これじゃん!とか思ってしまった(笑)。でも、「交換可能性」を基準に考えるとどうもよくわからない。まーいいや。
他にも面白いことを色々と書いていて、今「環境管理」の議論で良く出てくるAmazonの話。Amazonのマイページなんかでは勝手にオススメされるわけですよね。勝手に自分のプロフィールが管理され、おすすめされる。これを従来なら「自由」が侵害されたと考えない。
けれども、ある意味管理されている、というところがポイントなんですね。自分の中では一度も読みたいと思ったことない本を「あなたはこう言う人だから、こういう本を読むべきだ」と「客観的」にオススメしていくるわけですよ。
つまり、Amazonは神だと(笑)。神が工学的な装置にかわっただけだと。それにしても、この手の議論、みんなAmazon好きだなぁ(笑)。これへの是非って色々あるけど、僕はそれほどネガティブに捉えていない。だって、便利じゃん、なんていうロジックを唱える僕は多分「動物化」された存在なんだろうなぁ…(笑)。
とりあえず、ここでの問題は多分多くの人がこれを「管理」されているとすら捉えてないことなので、これ以上の価値判断はやめておきます。
あと国文的に是非上げておきたいのは、「文化のマクドナルド化」というテーマですね。「文化一般が批評が不可能な身体的快楽の芸妓へと還元されている」と言っています。良く言われるのがハリウッドとかですよね。とりあえず、ビジュアルはめちゃ綺麗だし、見ていると面白い。でも、それは一度きりであり、ある意味動物的だ。オタク業界しかり。音楽でもポップスの誕生を成熟社会だからこそ誕生しえた、とか村上龍(だったかな?)が言っていたわけですけど、ポップスなんてとりあえず聞いて気持ちよければいい、っていうジャンルなわけですよ。ロックや演歌みたいな社会的な物語的な背景なんて必要ない。
そして、多分その最果てがオタク界で流行っている電波曲だろうと(笑)。『もってけセーラー服』をJ-POPへのカウンターとか考えているオタクがいるかもしれませんけど(多分いないと思うけど)、実際は極限のポップスなわけですよ、『もってけセーラー服』は。
さあ、そういう社会の中で文化は成立するか?というのは大きな問いで、多分それへの一つの答えを出したのは『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』だろうと思っています。
余談ですけど僕が外山恒一を意外と「普通」と思っているんですよ。僕はわざわざ外山恒一のポスターの全文をチェックした暇人ですけど、彼は意外と大したこといってない。
彼は左翼からファシストに転向したわけだけど、従来左翼は「規律訓練型」に反対してきたわけだけど、いざ「環境管理型」に社会がシフトしたときに、彼はこれに反発したんですよ、多分。だから、「規律訓練型」(つまりファシズム)に転向しただけ。まー俗人ですな。でも、この状況に対して有効の答えを出さずに原則論に終始するほかの左翼よりは現実を見ているだけいいかもしれませんが(笑)。
※「ジェンダー論をオタク論に応用してみた」の「コメント返信」はこれの1個下に別記事として書いています。
![]() | 自由を考える―9・11以降の現代思想 (NHKブックス) (2003/05/01) 東 浩紀、大澤 真幸 他 商品詳細を見る |
とりあえず、セキュリティ論として斎藤環がなんかの本に引用していて、読もうと思っていてすっかり忘れていていた本。2003年に出た本ですからちょっと古いですね。
簡単に言えば、セキュリティ論、動物化する社会における権力論ですね。現代においては東浩紀の言葉をかりれば「大きな物語」――大澤だと「第三者の審級」、ラカンだと「大文字の他者」――の凋落した社会においてどうするか?という話ですね。
ここで問題になるのは「規律訓練型の権力/環境管理型の権力」の二項対立。前者は家庭のしつけや学校教育などをとおして、「超自我」を形成させるような権力。後者は個人の内面に介入せず、その行動をコントロールする権力。ようするにマックの椅子が固くして、回転率をあげるという話です(←これが動物的)。専門用語つかうと「パノプティコン/監視カメラ」とういことになります。
そして今問題なのが、「規律訓練型」→「環境管理型」にシフトしているということなんですね。
現代の一つの問題として「島宇宙化」(by宮台)ということがあると思うんですよね。簡単に言えば、一人一人が趣味のコミュニティに閉じているっていう感じですかね。オタクとかがいい例ですね。「大きな物語」が崩壊した後の社会においては、そうなるというのが『動物化するポストモダン』の議論なわけです。
これでは管理的出来ないから、「環境管理型」という権力の構造が生まれたわけです。さあ、そう言う中で「自由」をいかに考えていこうか、というのが本書の問いです。
で、こういう状況の解決策みたいに考えられているところをちょっと引用。
「偶然的な「私」、いつ他者になってしまうかもしれない存在としての「私」です。私を「私」にする主体的な刻印の「私」ではなく、その裏側にいつもつねにすでに誰かと交換可能になっているような存在、弱い受動的な「私」がある。」つまり、これが「共感」に繋がる、というんですね。
「匿名になれるという想像力がなければ、人は普遍的な共感を、言い換えれば社会全体を見渡す視点を手に入れることが出来ないのではないか。」
と言っています。
…正直どうですか?皆さん。僕的にはこういう発想は無かったなぁ…。
僕が「高度資本主義社会の中で生きていくために」で掲げたテーゼって「交換可能性」が前提となっている社会で、どう生きていくか?(いかにアイデンティティを築いていくか)だったんですよね。多分みなさんに伝わってないと思うけど(笑)、「私が死んでも変わりはいるもの」っていうのはそういうのを意識のもとで、ずっとトップに掲載していたんですよ(決してエヴァ好きだからではない)。
これに関して面白い指摘があって、北田アキヒロが「パノプティコンから見られていない不安がある」って言っている(らしい)んですよ。「大文字の社会的視点から見られ続けることで、はじめて主体=人間になれる。」と。つまり、これは環境管理型にシフトした社会においては、逆にアイデンティティが築けない。だから、「見られたい」「現れたい」(例えばブログとかSNSとか)に繋がるわけですよ。
つーか、完全に俺これじゃん!とか思ってしまった(笑)。でも、「交換可能性」を基準に考えるとどうもよくわからない。まーいいや。
他にも面白いことを色々と書いていて、今「環境管理」の議論で良く出てくるAmazonの話。Amazonのマイページなんかでは勝手にオススメされるわけですよね。勝手に自分のプロフィールが管理され、おすすめされる。これを従来なら「自由」が侵害されたと考えない。
けれども、ある意味管理されている、というところがポイントなんですね。自分の中では一度も読みたいと思ったことない本を「あなたはこう言う人だから、こういう本を読むべきだ」と「客観的」にオススメしていくるわけですよ。
つまり、Amazonは神だと(笑)。神が工学的な装置にかわっただけだと。それにしても、この手の議論、みんなAmazon好きだなぁ(笑)。これへの是非って色々あるけど、僕はそれほどネガティブに捉えていない。だって、便利じゃん、なんていうロジックを唱える僕は多分「動物化」された存在なんだろうなぁ…(笑)。
とりあえず、ここでの問題は多分多くの人がこれを「管理」されているとすら捉えてないことなので、これ以上の価値判断はやめておきます。
あと国文的に是非上げておきたいのは、「文化のマクドナルド化」というテーマですね。「文化一般が批評が不可能な身体的快楽の芸妓へと還元されている」と言っています。良く言われるのがハリウッドとかですよね。とりあえず、ビジュアルはめちゃ綺麗だし、見ていると面白い。でも、それは一度きりであり、ある意味動物的だ。オタク業界しかり。音楽でもポップスの誕生を成熟社会だからこそ誕生しえた、とか村上龍(だったかな?)が言っていたわけですけど、ポップスなんてとりあえず聞いて気持ちよければいい、っていうジャンルなわけですよ。ロックや演歌みたいな社会的な物語的な背景なんて必要ない。
そして、多分その最果てがオタク界で流行っている電波曲だろうと(笑)。『もってけセーラー服』をJ-POPへのカウンターとか考えているオタクがいるかもしれませんけど(多分いないと思うけど)、実際は極限のポップスなわけですよ、『もってけセーラー服』は。
さあ、そういう社会の中で文化は成立するか?というのは大きな問いで、多分それへの一つの答えを出したのは『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』だろうと思っています。
余談ですけど僕が外山恒一を意外と「普通」と思っているんですよ。僕はわざわざ外山恒一のポスターの全文をチェックした暇人ですけど、彼は意外と大したこといってない。
彼は左翼からファシストに転向したわけだけど、従来左翼は「規律訓練型」に反対してきたわけだけど、いざ「環境管理型」に社会がシフトしたときに、彼はこれに反発したんですよ、多分。だから、「規律訓練型」(つまりファシズム)に転向しただけ。まー俗人ですな。でも、この状況に対して有効の答えを出さずに原則論に終始するほかの左翼よりは現実を見ているだけいいかもしれませんが(笑)。








