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エヴァ卒業宣言

2007-12-23(Sun)
本当は2007年総括を書こうと思ったんですけど、2007年だけで括ることへの難しさを感じてやめました。2006-2007年総括なら書けるんだけど、06と07年が自分の中で別れてない(笑)。

というわけで、再びエヴァの話になるわけです。
このブログを長い間見ている方はご存知でしょうが、自分の中でエヴァ&村上春樹は別格扱いされているところがあって、二人とも過去「嵌って」現在まで自分に「影響」を与えている作品&作家なわけです。というよりも、エヴァと春樹は自分の中では不可分なものとして吸収されている。まー、他の人とは解釈とかは勿論違うでしょうが。

ところがですねえ、最近このあたりで「脱エヴァ」をしたいなぁと思うんですよね。新劇場版のときも同じこと書いたけど(笑)。

あっ、一応この記事は『新世紀エヴァンゲリオン』(劇場版含む)、『秒速5センチメートル』村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』のネタバレを含みます。ただ、かなり抽象的なネタバレですので、そんなに気にする必要性はないとは思いますが未読、未見の方はご注意を。



契機はサークルの某後輩にエヴァを見て本当に嵌ってしまったこと。その嵌り方が(僕の時よりは意識的な感じもするけど)、自分の時と余り似すぎていて自己嫌悪に陥ったこと。

で、この間の飲み会の時にその彼と意見が対立したのが、「劇場版エヴァの結論」からどうするか、というところなんですね。
劇場版エヴァの結論を自分の意見だとかなり恣意的になってしまうので、双城さんのとこから勝手に持ってくると

世界平和の実現は不可能。社会で苦しみ生き続けろ。

http://ouroboros.blog7.fc2.com/blog-entry-230.html


まあ僕は人類補完計画を「世界平和」というよりは、もうちょっと抽象的に(お互いに理解し合う?理解可能性みたいな?)感じでとっていることと、「苦しみ」というニュアンスは僕は使わない事以外は大意として同意です。

ちなみに、何で僕が「苦しみ」というニュアンスを使わないかというと、そこから僕の場合村上春樹と接続しているんですね。村上春樹の80年代の青春三部作+『ダンス・ダンス・ダンス』は僕の中ではエヴァと同じぐらいのポジションにある作品群なんですけど、『ダンス・ダンス・ダンス』の最後で高度資本主義社会における「文化的雪かき」を放棄して、北海道での小さな幸せを選択する。
確かに劇場版エヴァの最後は「ATフィールド」で傷つけ合う。でも、相手はアスカですよ。確かに劇場版においてレイ/アスカは母/他人という象徴の二項対立的に描かれているけれども、アスカはシンジにとって「他人」であっても全くの「見ず知らずの人」ではない。
そして、シンジはアスカの首を締めるけれども結局締め切れない。そこに僕は希望を見出すわけですよ。分かりあえる可能性だって十分あるし、「北海道での小さな幸せ」を獲得することだって出来る。だから僕は「苦しみ」という表現は使わない。

で、閑話休題。
僕が新劇場版が公開されたときに言ったことは

「ATフィールド」が復活して、そこから大事なのはそのATフィールドの中で生きていくことだと思うんですよ。ところが、結局ATフィールドで彼(女)らは傷つけあう(少なくとも僕はそう解釈してます)。そこから前進して初めて、本当に彼らの救済になると思うんですよ。
http://teitodiary.blog63.fc2.com/blog-entry-220.html


ということなんです。現在でもこの意見は変わってない。

そこが例の彼と僕の意見の差異なんですよね。
彼の意見は一応僕なりに要約するならば(意図が違ったらごめんなさい)「多くの人たちがそこ(=劇場版のラスト)が留まっている。つまり、そこから前進するということは決断主義的(あるものを選択することに理由はないけど、何らかの一歩を踏み出すべきだ的)であって、普遍性や一般性を失う」
彼の意見は最もで、僕も一年ぐらい前までならその意見に賛成したかもしれないし、彼の意見の方が客観的に見れば正しいとは思う。

では、それでもあえて僕が「前進」に拘るのは何故か。
「いざそこ(EOEのラスト)まで行った(=大人になる)あとに、行く場所がないしそこで長年留まることは出来ない(いわば宙ぶらりんには耐えられない)。だから、あそこから何が何でも前進することが重要なんだ」というのが僕の主張なんですね。

僕の場合はそこから村上春樹に接続することである意味「アフターエヴァ」(ポストじゃなくてアフター)とも言える作業を行ったわけですけど、それでも八方塞りで、どうしようもないというのが僕の現状なんですよね。だからこそ、本当に大事なのは「アフターエヴァ」(=前進)だと言うのが僕の主張なんです。

例えば、ここのブログで宇野常寛さんをかなり持ち上げたし、リアルでも結構持ち上げて結構不思議がられているところがあるけど、何で宇野氏の「決断主義」を中心とした考え方を持ち上げたかというとそういう「アフターエヴァ」意識があったからなんですね。宙ぶらりんでそう何年も生きていられない。正直、宇野さんの意見に賛成するのは核の部分だけで、細かいところ(作品評価や他の評論家評価)はかなり否定的だったりするんですけどね(笑)。

そういうアフターエヴァ意識から、僕は『秒速5センチメートル』の3話を絶賛するんですよね。一時間の映画で50分間過去の恋愛譚(そして新海的な綺麗な絵とともに)を描いておいて、10分間でそれを捨て去る(=踏み切りのシーンで振り向かない)という荒業を絶賛するわけですよ。
最も、このあたりは「あそこまでは誰でも描ける」という批判を友達から頂いたりもしたんですけど(笑)、エヴァ劇場版のラストあたりで留まっている僕としては「アフターエヴァ」を描いたという点だけで絶賛するわけです(それぐらい僕がエヴァに影響を受けていることですが)。

「宙ぶらりん」を解消するためには、何らかのコミットメントする対象が必要なわけです。
僕は最近(ここ一年ぐらい?)コミットメントすることの重要性を感じているんですね。僕は昔からひねくれ者だったので(笑)、事象に対してアイロニカルな立場を取ることが多かったんですね。高校時代まで相対主義者だったし(相対主義のパラドックスがあるから中心におくのはやめたけど、今でも脱構築的な考え方は好き)。でも、最近正直その宙ぶらりん状態に嫌気がさした。
理由としては、ある意味「アイロニカル」にコミットメントしていたことに嫌気がさしたのもあるし、あと単純に好きなものは好きって言いたいじゃないですか(笑)!あー、確かにおっしゃる通りかがみ萌えですよ、だから何?みたいな感じで(笑)。

「何らか」が好きだからコミットメントするよりは、何らかにコミットメントしたいから「何らか」を戦略的に選ぶ、という本末転倒な状況なんですけど、そこまでして何らかにコミットメントしたいというのが僕の中にあるんですね。
そこで選ばれたのが「エヴァ」と「村上春樹」だった、という気もします。確かに二つとも好きな作品&作家でかつ大きな存在であることは確かなんですけど、僕が何故この二つにそこまで拘るかというとそういう理由もある。

でも、コミットという作業は「自分がコミットした」ことを確認して貰うためには、やはり他人から承認を得ないと不安で仕方ない、かつ自分で何度も確認する作業を必要とする、という不思議な側面を持つと思うんですよね。ギデンズ的に言うと「再帰的」という言葉になるのかな?
だからこそ、僕は村上春樹へのコミットメントを他者に示すためにこのようなブログタイトルを持ってきたし、ひょっとしたら国文学を選択した理由の一つかもしれない。
こういう複雑な作業を伴う春樹に対して、エヴァはコミットメントは表すのは簡単で例えば他人へのキャラ萌えの表明、腐るほど出ているエヴァグッズ、エヴァの壁紙、エヴァの曲をmp3プレーヤーの中に入れる(自分で確認)、ブログなどでのエヴァネタとか手段はいくつでもある。

そういうわけで、コミットメントする対象として春樹&エヴァを選択したわけですけど、春樹は前述の通りコミットメントを確認しづらいので、エヴァがやっぱりコミットメントの対象の中心になったところがあると思います。他のアニメの好きなキャラに較べて、アスカに拘るのもそういう側面があるでしょうね…。

で、何でここにエヴァ卒業宣言か、というとアニメ界の流動性に耐えられなくなったというのがが理由の一つです。正直エヴァにコミットメントしていると、ネットに吹き荒れる「ハルヒ」万歳三唱(=「エヴァ」は時代遅れ)旋風が本当に耐えられない(笑)。
去年はハルヒだ長門だ言っていた連中が、今年はかがみだつかさだ言っている状況に耐えられなくなったというか(自分もそれに乗っていたとは言え)…結局、エヴァもこういう時代の移り変わりの一つとして彼らには捕らえられてしまうことに耐えられなくなったというか。

そういう理由でそろそろエヴァは卒業する必要性は感じてます。もちろん、いきなりは無理でもある程度「エヴァ」を何らかの括ってしまう(←「秒速5センチメートル」の一話二話みたいに)必要性は感じているんですね。それこそ僕が言う「アフターエヴァ」つまり「前進」ですね(笑)。
そういうわけで、とりあえず現状確認と当分の目標としてブログに書いてみました。
もしここまで読んでくれた方がいたらこんな長文を読んで頂いてありがとうございました。

追記:『秒速5センチメートル』について

これ書いたあと、さらっと片付けた『秒速5センチメートル』解釈がこれで良かったのか不安になり、いくつかブログをチェックしてみた。
知り合いのブログで言えば双城さんの『Psycholo Diary』はほぼ同意見(ロマンチシズムの否定、ただし「宇宙」に一介のロマンチシズムを賭けるという読解は素晴らしいと思います)、職業ニートさんの『ニートのかんさつ日記』は僕と正反対でビビった。
多様な読解も可能な作品であると、言う文芸評論のクリシェで片付けられないぐらい、お互いのアイデンティティに関わりそうな違いな気がする…。
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