![]() | ef - a tale of memories.1【初回限定版】 (2007/12/07) 下野紘、柳瀬なつみ 他 商品詳細を見る |
ええと、何で見たかというと例の某日記が(どう考えても暇とは思えない時期に)絶賛しまくっていたからなんです。いや、やっぱり正直言おう。「『CLANNAD』なんて目じゃない」というフレーズがカチンときたからなんですが。(もしこのフレーズまで含めて、有瀬さんの作戦だとしたらたいしたものです)
はっきり言って、そこまで言うかと。あの東浩紀に神が宿っていると言わしめた風子と最高のバカキャラ・春原(←個人的に好き)を超えていくかと!?
というわけで、今日はたまたま暇だったので12話全て視聴。
それこそ新海誠的な映像表現、ポップアートっぽいOP、その他、斬新な映像表現、まさにクリエイター魂ここにありというのは僕は嫌いじゃないし、それになりに楽しめた。
凄く気になったところで、比喩表現の「うまさ」が光っているところ。でも、同時に「あざとい」と感じる自分がいたのも確かなんですよね…。「うまい」表現と「あざとい」表現ってこんなに紙一重なんだって初めて気づいた(笑)。
例えば、「鎖に繋がれた羊」という比喩。確かに「うまい」比喩表現なんだけど、同時に「あざとい」。「うまい」比喩表現というのは要するにシニフィアン(意味しているもの)とシニフィエ(意味されているもの)が表裏一体なんですよね。では、何故それが「あざとい」のか。簡単に言えば、作者が作るときからシニフィアンとシニフィエが不可分にくっついているからなんですよ。だから、誰が見ても「鎖に繋がれた羊」は千尋の比喩だと思う。なんていうか、狙っている比喩?のあざとさを感じてしまう。
「比喩」ってそこが面白いのではないと思うんですよ。一つのシニフィアンが作者が(意識的には)思いもよらないようなシニフィエと結合して読者に読解されてしまう。東浩紀の「誤配可能性」じゃないけど、そこがやっぱり「比喩」の面白いところだし、その「感性」が僕はクリエイターの見せ所だと思う。狙って書いた比喩なんて、ようするに「理性」で書いた比喩なわけで、僕みたいなひねくれた人間(笑)には「あざとい」ように見えてしまう。
個人的な感想なんですけど、『ef』見ていて僕は12話のED前の3分ぐらいですごい萎えた。結局、そこに落とし込むのかよ…という愕然とした気分で、決意に満ちている彼らを見ていた自分がいた。そんなこと言うために12話も使って描いてきたのかよ!?っていう気分で見てた…そんなこと改めて言われなくても、わかってるよ。分かっているけど、どうしようもないからみんな困っているんじゃん。
夢?そんなのあったよ。そして、まだ大学生だし、「夢」を叶えられる可能性だってないわけじゃない。でも、何だかんだで僕たちは現実を生きていかなければならない。来年の今頃はシュウカツなわけで。
例えば『CLANNAD』の春原だって、スポーツ推薦で入ったぐらいだし、「夢」はあったんだよ。でもやっぱり挫折するし、だからといって人生をやめるわけには行かないから、春原だってバカやって過ごして、他者からちゃんと承認されているし、時々熱くなるものを見つけて熱くなって、という「日常」を過ごしているわけで、でもそれがやっぱり僕たちじゃん、と思うんですよ。
まぁ、何でこんなに意地悪なことばっかり言っているかというと正直、自分が「嵌れ」なかったからなんですが。なんていうか、この作品年齢制限あるよね…何歳以下っていう。せいぜい、大学生ぐらいまでじゃないかなぁ…この作品が楽しめるのは。
『ef』がダメという気はないけど、僕にとって必要な物語じゃない。というか、この作品見てたら無性に村上春樹が読みたくなってきた(笑)。『ef』は「文化的雪かき」のリアリティに勝てないだろ…。
コメント返信
>銀狼さん
>毎回楽しみにみてまーす!
どうもありがとうございます!何となくブログに自信なくしていたところなので、そういう短いコメでもありがたいです。








