この間、某戦争映画見てたら「That's classified」が、頭の中で「禁則事項です♪」に変換されてしまったKeiです(英語版ハルヒのみくるの「禁則事項です」の翻訳が「That's classdified」)。
なんとなく一週間程度かけて『思想地図vol.1』レビュー大会やります。なんでやるかって?多分、そうしないと自分が読まないと思うので(笑)。
中島岳志『日本右翼再考』
日本の右翼の歴史を淡々と追ったもの。たいへん、よくまとまっていますが、「勉強になった」ぐらいしか感想がない(笑)。でも、この手のものを読むたびに戦前の福岡って面白い(というか、やばい?)街だったんだなぁ…とは思う。葦津珍彦も中野正剛も福岡出身だし、玄洋社の発祥は福岡だし、戦前の修猷館(現在は県内公立トップの高校)は化け物か!とよく思う(笑)。夢野久作も修猷出身ですね。
高原基彰『日韓のナショナリズムとラディカリズムの交錯』
1章で丁寧に韓国政治史を追い、韓国における「ナショナリズム」「ラディカリズム」を検証し、2章で日本における「ナショナリズム」「ラディカリズム」を検証し、お互いの「内向き性」を指摘し、「相互対話へ」つなげる論文。
ちょっと考えれば当たり前の話ですが、韓国において「国家主義」と「民族主義」は全く違う意味合いを持つんですね…そんなことすら知りませんでした。韓国において「国家主義」とは「開発独裁」を示し、「民族主義」とは民族統一派とのこと。
金大中→ノ・ムヒョンラインが「民族主義」で「ラディカリズム」で「反米」で経済路線は「ネオリベ」なのに、市民運動出身ということもあり労働者重視政策。日本の文脈とは全然違いますね。現大統領の李明博は旧独裁政権の流れを組んでいて、「保守」系。日本で言えば自民党みたいなところでしょうか。
それに対して、日本の大衆的ナショナリズム――「豊かで安定した良き日本社会」――その自画像へのアンチテーゼとしてラディカリズムは「少数者」重視に向かう(在日とか)。しかし、「普通の日本人」が「豊かで安定」した生活が出来るか怪しくなってきたときに、何故「少数者」に寄り添わないとならないのか?ということが「反左翼」というか「保守化」に繋がってる。
という感じで、「保守化」が進んでいると言われるが、全然文脈が違うという日韓両国の比較論でした。相互対話が必要だ、という結論ですね。
参考リンク:流動化社会を生き抜け 『不安型ナショナリズムの時代』ニートのかんさつ日記
増田聡「データベース、パクリ、初音ミク」
パラパラめくったときに『思想地図』の論文の中で一番面白そう!と勝手に思っていて、読む前から期待してましたが、その期待に違わない内容でした。
東浩紀の提唱した「データベース消費」ですが、それを音楽に当て嵌める言説はしばし見かけます。その有名なのがDJ文化、サンプリング、リミックスって奴ですね。その「DJ文化」と「オタク文化」の違いに言及する論文。
DJ文化では「レコード音楽に込められていた作品としての意味は解体され、個々の音楽的断片が重視される」んですが、オタク文化との違いはその「DJ的な音楽的実践は、個々の音楽断片のパブリシティ(有名性を伴った顧客吸引力)には依存しない」こと。つまり、オタク文化における二次創作は原作のパブリシティを前提としているわけですけど、DJは「素材」としてのみの機能を「データベース」に要求している、と。
パクリ批判
1「パクリは他人の創作的な労力を収奪し、その成果だけを労せずして享受している」(DJ・サンプリング批判)
2「パクリは既に有名でパブリシティ効果を持つ作品に寄生し、そのパブリシティを享受している」(同人誌への批判)
「パクリ批判言説の浮上にはポストモダン文化の生産=消費様式に対する近代的な制度からの反発として解釈できる。」が、近年のパクリ批判は過剰すぎると指摘。
その理由に対して「人間のそのものの把握のされ方がキャラクター的なものになってきているのではないか?」by大塚を東的に言い換えれば「世界の深層には情報の層があり、そこから選び出された特定の情報の組み合わせが人格を構成しているように感じられる」ということ。
なので、人格を共有可能性を持った属性情報の組み合わせとして理解されるからこそ、「自分を盗まれた」感覚を触発することになっている⇒パクリ批判過激化したのでは?(ex.倉木麻衣の宇多田パクリ論争)
主体の創作労力とその権能を節減する目的(DJ・サンプリング)&パブリシティ志向の消費行動(オタク同人)へと回収されるような音楽実践それこそが
だったのではないか?という論です。「創作労力の節減のためのツールとして送り出されたものが、キャラクター志向的な想像力によるパブリシティの享受へと吸引されてしまう事態は、声と言う音響機器が、なにがしかの特定の主体の存在と結び付けられてしまう」
正直は、その「キャラクター主体論」みたいなところが実感として微妙…とか思ったんですが、「パクリ」論から初音ミクブームへの展開は面白かった。
ただ、この3つ通して思ったんですが、東は「日本の人文系アカデミズムが国際的に孤立してる」という危機意識から『思想地図』を創刊したということを言っていたような気がするんですが…、全体を通して「日本の文脈を前提とした論文」がやたらと目立つのは…意図したことなんでしょうか。ある意味、仕方ないのかなぁ…。
というわけで、今日は以上3本でおしまい。
スペインGPの感想は…また明日。今日は疲れた。
コメント返信
>しーびーうぇっじさん
>僕がそんな人たちと共通している部分は探す気は無いですが、黒瀬陽平さんと共通している点はあります。
>電波ソング好き
へー、電波ソング好きという意外な共通点(笑)。やっぱり、若いなぁ…。黒瀬さん、ブログ持っていたんですね。紹介ありがとうございます。
なんとなく一週間程度かけて『思想地図vol.1』レビュー大会やります。なんでやるかって?多分、そうしないと自分が読まないと思うので(笑)。
中島岳志『日本右翼再考』
日本の右翼の歴史を淡々と追ったもの。たいへん、よくまとまっていますが、「勉強になった」ぐらいしか感想がない(笑)。でも、この手のものを読むたびに戦前の福岡って面白い(というか、やばい?)街だったんだなぁ…とは思う。葦津珍彦も中野正剛も福岡出身だし、玄洋社の発祥は福岡だし、戦前の修猷館(現在は県内公立トップの高校)は化け物か!とよく思う(笑)。夢野久作も修猷出身ですね。
高原基彰『日韓のナショナリズムとラディカリズムの交錯』
1章で丁寧に韓国政治史を追い、韓国における「ナショナリズム」「ラディカリズム」を検証し、2章で日本における「ナショナリズム」「ラディカリズム」を検証し、お互いの「内向き性」を指摘し、「相互対話へ」つなげる論文。
ちょっと考えれば当たり前の話ですが、韓国において「国家主義」と「民族主義」は全く違う意味合いを持つんですね…そんなことすら知りませんでした。韓国において「国家主義」とは「開発独裁」を示し、「民族主義」とは民族統一派とのこと。
金大中→ノ・ムヒョンラインが「民族主義」で「ラディカリズム」で「反米」で経済路線は「ネオリベ」なのに、市民運動出身ということもあり労働者重視政策。日本の文脈とは全然違いますね。現大統領の李明博は旧独裁政権の流れを組んでいて、「保守」系。日本で言えば自民党みたいなところでしょうか。
それに対して、日本の大衆的ナショナリズム――「豊かで安定した良き日本社会」――その自画像へのアンチテーゼとしてラディカリズムは「少数者」重視に向かう(在日とか)。しかし、「普通の日本人」が「豊かで安定」した生活が出来るか怪しくなってきたときに、何故「少数者」に寄り添わないとならないのか?ということが「反左翼」というか「保守化」に繋がってる。
という感じで、「保守化」が進んでいると言われるが、全然文脈が違うという日韓両国の比較論でした。相互対話が必要だ、という結論ですね。
参考リンク:流動化社会を生き抜け 『不安型ナショナリズムの時代』ニートのかんさつ日記
増田聡「データベース、パクリ、初音ミク」
パラパラめくったときに『思想地図』の論文の中で一番面白そう!と勝手に思っていて、読む前から期待してましたが、その期待に違わない内容でした。
東浩紀の提唱した「データベース消費」ですが、それを音楽に当て嵌める言説はしばし見かけます。その有名なのがDJ文化、サンプリング、リミックスって奴ですね。その「DJ文化」と「オタク文化」の違いに言及する論文。
DJ文化では「レコード音楽に込められていた作品としての意味は解体され、個々の音楽的断片が重視される」んですが、オタク文化との違いはその「DJ的な音楽的実践は、個々の音楽断片のパブリシティ(有名性を伴った顧客吸引力)には依存しない」こと。つまり、オタク文化における二次創作は原作のパブリシティを前提としているわけですけど、DJは「素材」としてのみの機能を「データベース」に要求している、と。
パクリ批判
1「パクリは他人の創作的な労力を収奪し、その成果だけを労せずして享受している」(DJ・サンプリング批判)
2「パクリは既に有名でパブリシティ効果を持つ作品に寄生し、そのパブリシティを享受している」(同人誌への批判)
「パクリ批判言説の浮上にはポストモダン文化の生産=消費様式に対する近代的な制度からの反発として解釈できる。」が、近年のパクリ批判は過剰すぎると指摘。
その理由に対して「人間のそのものの把握のされ方がキャラクター的なものになってきているのではないか?」by大塚を東的に言い換えれば「世界の深層には情報の層があり、そこから選び出された特定の情報の組み合わせが人格を構成しているように感じられる」ということ。
なので、人格を共有可能性を持った属性情報の組み合わせとして理解されるからこそ、「自分を盗まれた」感覚を触発することになっている⇒パクリ批判過激化したのでは?(ex.倉木麻衣の宇多田パクリ論争)
主体の創作労力とその権能を節減する目的(DJ・サンプリング)&パブリシティ志向の消費行動(オタク同人)へと回収されるような音楽実践それこそが
だったのではないか?という論です。「創作労力の節減のためのツールとして送り出されたものが、キャラクター志向的な想像力によるパブリシティの享受へと吸引されてしまう事態は、声と言う音響機器が、なにがしかの特定の主体の存在と結び付けられてしまう」
正直は、その「キャラクター主体論」みたいなところが実感として微妙…とか思ったんですが、「パクリ」論から初音ミクブームへの展開は面白かった。
ただ、この3つ通して思ったんですが、東は「日本の人文系アカデミズムが国際的に孤立してる」という危機意識から『思想地図』を創刊したということを言っていたような気がするんですが…、全体を通して「日本の文脈を前提とした論文」がやたらと目立つのは…意図したことなんでしょうか。ある意味、仕方ないのかなぁ…。
というわけで、今日は以上3本でおしまい。
スペインGPの感想は…また明日。今日は疲れた。
コメント返信
>しーびーうぇっじさん
>僕がそんな人たちと共通している部分は探す気は無いですが、黒瀬陽平さんと共通している点はあります。
>電波ソング好き
へー、電波ソング好きという意外な共通点(笑)。やっぱり、若いなぁ…。黒瀬さん、ブログ持っていたんですね。紹介ありがとうございます。







