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『恋空』こそポストモダン文学(笑)&コメント返信

2008-06-20(Fri)
早速、脆弱性で話題のFirefox3使ってます。まぁ、リリースされた直後のブラウザにおいては、恒例行事みたいなものですが(セキュリティ意識低っ!)。
確かにver.2.xよりは早くなったような気がします。が、世界最速!と自慢するほどには思えないんですが…ところで、何が最速なんでしたっけ?レンダリング?

最近、ブログ更新頻度が著しく低くてすみません。書きたいネタはいくつか有るんですが…。

なんか授業中に読んでた資料に面白いものがあったのでちょっとまとめてみる。

「通常、テクストが不特定多数の読者の間に流通するものがということを無意識に前提となっている。しかし、古代の物語ではそんな不特定多数の読者に向けて発信されていないかもしれない。平安朝の文学は作者と読者のかなり直接的な相互交流が想定できる。言わば、趣味的な知的エリートの同人サークルで出来たもの。
どちらがより優れている共通の価値の基準に照らして見ていくのは、大量印刷が可能になった時代以降の考え方。『源氏物語』と『落窪物語』と『宇津保物語』とをくらべて、どちらがよりすぐれているという発想は当時は無い」(高橋 亨・小嶋菜温子・土方洋一『物語の千年』より要約引用)

この考え方は大量印刷時代にも関わらず、島宇宙化した社会おける文学・作品に応用可能じゃないでしょうか。
そもそも、共通の価値基準なんてものが出てきたのは近代以降に過ぎないわけで、それ以前は自分の所属するコミュニティ(宮廷とか)で需要されることを前提に作品が作られていたと。しかし、大量印刷技術の登場で、不特定多数の「大衆」に向けて発信されるようになったと。
『恋空』にせよ、ライトノベルにせよ基本的に作者と同じコミュニティの中で消費されることが前提となっているわけです。言わば、不特定多数の人に受ける作品と言うよりは、ある程度は特定された多数の人に消費されることが前提となった。

ただ、現代は大量印刷、大量コピーが可能な時代なので、島宇宙の外の人にも読まれるわけで、その結果『恋空』騒動を引き起こしたわけですが(笑)。

近代以前はもともと作品は不特定多数の人に向けて書かれる物ではなかった、という視点は割合重要な気がします。
実際、『恋空』なんて読んでみればわかるんですが、全然一般の人向けに書かれてないんですよ。例えば、後半にでてくる主人公の友達のギャルの会話文がギャル文字だったり(笑)、リアリティを調達するための描写、説明などもほとんど無し(あったのはPHSの説明ぐらいだったかな・笑)。もともと一般性なんて全然追求してないし、同じコミュニティの人のために書かれているわけです。言わば、「大衆」なんて想定してないと。
ライトノベルにしても『スレイヤーズ!』とかがオタクに内輪受けしている頃には、文学との摩擦なんて起きなかったものの、2000年代のラノベブームや舞城王太郎、佐藤友哉のデビューで一気に問題と化したイメージがあります。
ラノベにせよ、ケータイ小説にせよ、結局は問題を引き起こしたのはその内輪性なわけですし。

ぶっちゃけ、こういう小説しかポストモダン状況下においては成立しないのではないか、という印象すらあります。東浩紀がライトノベルを分析するには「環境分析」が必要なのだ、と主張していましたが、こういう背景があるのかもしれません。
もちろん、それがいいことか悪いことかは、また別の問題となるわけですが。現代の文学状況を考える上でもっと前近代を参照すべきじゃね?とか思う今日この頃。

あと、一応『恋空』読んでます(まだ読み終わってないけど)。あまりの奇抜な文章表現に忍耐力が試されますが、ストーリーはそこまで悪くないんじゃないかと思う。あっ、でもどっかの某評論家と違って美嘉萌えは無理です、どう考えても。いつか、独立したエントリ書くかもしれません。

コメント返信
長々とコメント返信書いていたら、ミスって消してしまったので(↑上の部分は保存していたので残った)、返信簡略版です。すみません。

>双城さん

・文学定義の問題

「文学」の定義をお互いにこうある「べきだ」と、「べきだ」論を話していても、それは単なる定義の違いであり実りはない気がします。「べきだ」論というのは勝手に言えてしまうので。
ただ、「べきだ」論であるのを自覚しつつ、姑息に僕の主張の正当性を主張するならば(笑)、「文学」という用法は圧倒的に「文学作品」という用法で使われており、かつ「文学研究」「文学論」という用語が存在する以上、特に現状で問題はないと思うのですが。

>主観的じゃない文学なんて文学じゃないと思うんですよね。だから主観的で抽象的なものだからこそ、それは「文学」であり、あらゆるものが「文学的」と評価しうる・・・。

主観的で抽象的、それでよい、文学とはそういうものだから、という主張ですが、それに関しては疑問が残ります。
主観的、それでよいというのは「文学作品」の話です。「文学的」という単語は、「りんご」とかと同じ単なる単語です。文学であれば多用な読解はあってしかるべきでしょうが、「文学的」という表現は相手に何らかの意味を伝えるための単語に過ぎません。
ある程度は主観に基づくのは当たり前ですが、言語である以上相手とのある程度の「共通認識」は必要だと思うのですが(じゃないと言語ではないです、私的言語は言語じゃないです)。
結局、「文学的」という単語を使って、伝えたいものとは何なのでしょう?どういうシニフィエ、意味内容を持つのでしょう?「主観的」という意味でしょうか?
僕は特に持たないような気がします。というより、僕ならもっと正確に意味の伝わりそうな別の表現を使います。

最も、これは個人的な考えなので他人に強制すべき種類のものではないとは思いますが。

>職業ニートさん

応援ありがとうございます。就活頑張ります…多分(え?

>tamakiさん

>私もkeiさんのに便乗してニュースに追い付いていこうと思うのでどしどし更新してください

結局、一週間に二回しか更新しませんでした…。頑張ります…。

>私のスタンスとしては、文学(および文学的か)どうかはやはり個人に依るもの、というのが強いようです。

実際、「文学」に限らず、あらゆる単語の境界って言うのは曖昧なものですしね。数年後には『恋空』論争なんてとうの昔に終結しているに一票(笑)。
古典芸能なんかは僕の中のイメージでは「文学」というよりはワンランク上の概念である「文化」って感じがしますね…「文化」というのも広すぎてよくわからない言葉ですが(笑)。

ご三方コメントありがとうございます。
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