スポンサーサイト

--------(--)
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「私」をめぐる対立――高橋源一郎×東浩紀トークショーレポート

2010-06-13(Sun)
昨日、ABC本店で行われた高橋源一郎さんと東浩紀さんのトークショーに行ってまいりました。

お二人とも僕が高校時代から読んでいた小説家・批評家(どちらがどちらを指しているかわかりづらくなってきましたw)でもあり、今なお追いかけている二人でもあります。

詳しいレポートはtogetterあたりに任せるとして(便利な時代になったもんだなーwそもそもニコ生もされてたし)、適当なレポートをば。
あっ、あと現地特典はtogetterではサイン会ってことになっていますが(サイン会もありましたが)、ここで言われていた特典は来場者に配っていた『悪と戦う』に関連する高橋源一郎さんの掌編のことですね。こんなものが頂けるとは思ってませんでした…。

結論から言えば、大変有意義なトークショーだったと同時に、お二人の考え方の違いが鮮明になったトークショーだったのではないでしょうか。

東さんと桜坂さんの小説『キャラクターズ』について東さん本人はこうおっしゃっています。

つまり、あれだと東浩紀っていうキャラクターは、僕が書いたものではないわけ、半分は。そうすると、作者が統御できないから、自立していくと。だからあれはキャラクターの自立の物語、単に。すごい簡単。それこそがメインのテーマで、だから作者が勝手に物語をばらばらにしてしまうことによって、最初は私小説的な私として始まったものが、むしろキャラクターになっちゃうよ、という話です。
「特別インタビュー 東浩紀の功罪」(『PLANETS vol.4』所収)



『キャラクターズ』は冒頭過剰なまでに自然主義リアリズムにのっとった「私小説」として描かれていますが、それを解体していく小説だと東さん自ら位置づけています。

それに対して、高橋さんはどういっているか。

斎藤(引用者注:斎藤美奈子):まあ、私小説のパロディをやるって言って立派な私小説になってるしね。だって肉体の叫びだもん。
高橋:宣言してパロディでやっても私小説になるってことは、私小説というものの強固さを証明していてもいるんだよね。
(中略)
高橋:日本の文学を振り返ってみれば、私小説の「私」も個人だけどキャラクターだし。
斎藤:田山花袋なんてみんなキャラクター小説じゃん
「ブックオブザイヤー2007 文藝編」(『SIGHT 2008 winter』所収)



つまり、私小説を解体していくというきっかけが「佐藤友哉が三島賞をとった」ことの対する義憤であり、『キャラクターズ』という小説自体が東浩紀に回収されていっているではないか、ということでしょうか。
というよりも、「私小説への抵抗」というのもの自体が東浩紀に回収されていていってるように僕には見えます。

さて、このトークショーで最初の面白い切り口になっていたのが、この問題でした。高橋さんは『キャラクターズ』そして、同じような図式を持つ『クォンタム・ファミリーズ』を私小説として積極的に評価しようとします。もちろん言うまでもなく、高橋さんも東さんも自然主義の作家ではないので(『ゲーム的リアリズムの誕生』的には高橋源一郎も自然主義なのでしょうがw、普通に考えれば)、一般的にいわれる私小説とは話がやや違うでしょう。「私」が作品内で出ている、描かれている小説といったところでしょうか。

その位置づけに対し、東さんはたびたび「僕は「私」を描くのはあまり好きではない。そうなってしまっただけ。エンターテインメント作家になりたい。あれは「私」を描く日本近代文学の伝統と接続するための戦略上の問題」と繰り返ししています。ちなみに、前に引用した「PLANETS」のインタビューにおいては「筒井康隆に、高橋源一郎に、読んでもらうため」とまでいっています。そして、それには成功しています。

それでも、読者の「リアル」を持ち出して「私」との接続をはかろうとする高橋さんに、東さんは「自分の現実を叩き潰すために書いている」という回答を返しているのが大変印象的です。東さんとしてはそれは「私小説」への抵抗であり、同時に高橋さんにとって見ればキャラクターズを書かせた「義憤」と同じような感情をとおして「私」と接続できたと確認できたものだったのではないでしょうか。

「私」にこだわる高橋さんと「私」への撤退をはかる東さんとの「私」をめぐるすれ違いはそのあとの高橋さんの話で鮮明になります。

高橋さんは「私小説は私的な空間なのだけれども、そこに読者を招き入れることによって、作者と読者がであっている。もちろん他者であるから理解できないけれども、コミュニケートする。私小説の場合、現実から登場人物がアバターとして登場する。これは公的空間に払う『贈与』みたいなものではないか。これが小説の『公共性』ではないか」と述べています。

つまり、高橋さんにいわせれば「私」を通して「公共」を立ち上げる、私を贈与することによって公に近づくと述べています。だからこそ、家族を含めてかなり返り血をあびているw、『クォンタム・ファミリーズ』は「私」性が強く同時に「公共」性も強いとして高橋さんは高く評価されています。

そのあと「政治と文学」の話において高橋さんは「政治と文学は本当に対立するのか」といったことをおっしゃています。

ところが、従来の発言を見ても、その後の回答をみても東さんは「政治と文学は切り離さざるを得ない」という立場です。この問題については最もラディカルなのは宇野さんで前掲書『PLANETS vol.4』の対談においても二人が意見が一致する問題、下北沢再開発問題を通して「政治と文学を切り離せ」とはっきり言っていますし、東さんもそれにほぼ同意しています。

ここでは東さんは「『公的』であることというのが日本では上滑りしているので、日本型公共のあり方として考えるべき」というにとどめています」そして「『公』と『私』を結ぶ情念の回路だったのが文芸批評だったのだけど、そうではなくなってきて、『公』は『公』で『私』は『私』でやるしかない」と返しています。

ポストモダン作家とポストモダン思想家が近代文学の伝統の「私小説」をめぐって対談するという奇妙な対談は、公との接続として「私」を考える高橋さんと「私」は「私」でやるしかなくてそこに"撤退"したいと考えている東さんという両者の違いが明確になったところで幕を閉じます。

僕としては世代的な問題もあって東さんの方がリアリティとしては近いです。このあたりの問題についてはまだまだ考えてみたいことはあるので、また機会があれば書きます。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

本ブログはXP+IE7、Firefox3、Safariで一応確認しています。
リンクについては貼るなり外すなりお好きにどうぞ。

▲Pagetop
プロフィール

Kei

Author:Kei
文学部卒業して、冴えない仕事を冴えない顔でやってる。スバル持って北海道に移住したい。

最近の記事
人気エントリー
最近のコメント
コメントのレスは基本、次回記事でします。
古い記事へのコメントも大歓迎です。ただし、その場合はその記事のコメント欄におけるレスになります。
最近のトラックバック
月別アーカイブ
11  10  08  12  10  09  06  03  02  09  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  06  05  04  03  02  01  12  11  10  09  08  07  05 
カテゴリ
リンク
ブログ内検索
カウンター
あなたは
RSSフィード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。