というわけで、2連続書評です。
しかも、今度はあの佐藤友哉です!
サークルの友達がなぜか「新潮12月号」を読んでいたので、佐藤友哉の最新小説『1000の小説とバックベアード』を読ませてもらいました。
ユヤタン、復活?佐藤友哉新時代への序章
ハルヒの次が佐藤友哉かよ、というツッコミはスルーで。というか、ハルヒのおかげで佐藤友哉の良さを再度理解できたような気がするぐらいです。
正直、ココのところのユヤタンは迷走状態で、正直「どうなのかなぁ?」という作品が多く(「鏡姉妹」は酷かった!)、HPのプロフィールの欄にも「好きだった作家」に分類していました。
しかし、今度「新潮」に一挙掲載してきた『1000の小説とバックベアード』は本当にユヤタン復活です!
というか「新潮」に一挙掲載というところをみても、本気で編集者は三島賞狙いの様子。というか、僕が選考委員なら絶対あげるし。
でも、場が読めない宮本輝センセイ(まだ選考委員だっけ?)あたりに反対されそうなので、僕がここで勝手に「Kei的現代日本文学大賞」を差し上げます!って、そんなもん貰っても迷惑ですかそうですか。
というわけで、
いい加減、ストーリー紹介&感想
うーん、ストーリーは紹介できるはど単純なものではないんですよね…。まあ、ざっというと、よく小説家が「書けない」ことに悩んでいる私小説ありますよね?多分、原稿に追われて書くことが無くて、苦し紛れに書くんでしょう。「実験小説的だ」「メタだ」なんだかんだ言って褒められても、どこかつまんない、そんな印象のあるこの手の作品。そりゃそうです、既存の小説枠内で悩んでいるんですから、そりゃそうだ。毎回、同じことだし。
でも、さすがセカイ系を代表する佐藤友哉センセイ。思考回路が違います。セカイ感が違います。当然、言葉で表現できない概念、ものというものはあります(現代思想で言われる暗黙知って奴ですね)。人間はことばでセカイを分節化し、認識しているのです。ならば、新たな言葉(=セカイ認識)を作ってしまえばいい!
つまり、いわば佐藤友哉は自らハルヒの役割をやるぞ!と言っているわけですね。さすがに言ってないか
と、いきなり脱線気味の暴論をのせておきます。さすがに、佐藤友哉はここまではいってないと思いますが、佐藤友哉の小説に対する真摯な考え方というのが伝わってきます。実際、この小説で提示される小説観はどっかの都知事の小説観なんかよりも100倍ぐらい切実だし、今文学が抱えている問題に対して自覚的。しかし、この事に気づいていない作家が余りにも多すぎる!
この小説は佐藤友哉が「現代日本文化」における「文学」に果たすべき役割を明示したものだと思うし(勿論、役割についての異論はあるだろうが)、ある意味この小説自体が現代の『浮雲』にならんとしている…はいい過ぎか。
おそらく過分な評価だと僕も書いていて自覚しているが、僕が小説を読んで久々に色々な面で熱くなったのも事実。この小説を純文学界が高く評価できないならば、それは「僕がこれレベルの作品が日頃書かれているのを知らない」or「日本の純文学の評価制度は文学の枠の中に閉じこもっている」のいずれかとしか思えない(出来れば前者であることを願うが…)。
しかも、今度はあの佐藤友哉です!
サークルの友達がなぜか「新潮12月号」を読んでいたので、佐藤友哉の最新小説『1000の小説とバックベアード』を読ませてもらいました。
![]() | 新潮 2006年 12月号 [雑誌] (2006/11/07) 新潮社 この商品の詳細を見る |
ユヤタン、復活?佐藤友哉新時代への序章
ハルヒの次が佐藤友哉かよ、というツッコミはスルーで。というか、ハルヒのおかげで佐藤友哉の良さを再度理解できたような気がするぐらいです。
正直、ココのところのユヤタンは迷走状態で、正直「どうなのかなぁ?」という作品が多く(「鏡姉妹」は酷かった!)、HPのプロフィールの欄にも「好きだった作家」に分類していました。
しかし、今度「新潮」に一挙掲載してきた『1000の小説とバックベアード』は本当にユヤタン復活です!
というか「新潮」に一挙掲載というところをみても、本気で編集者は三島賞狙いの様子。というか、僕が選考委員なら絶対あげるし。
でも、場が読めない宮本輝センセイ(まだ選考委員だっけ?)あたりに反対されそうなので、僕がここで勝手に「Kei的現代日本文学大賞」を差し上げます!って、そんなもん貰っても迷惑ですかそうですか。
というわけで、
いい加減、ストーリー紹介&感想
うーん、ストーリーは紹介できるはど単純なものではないんですよね…。まあ、ざっというと、よく小説家が「書けない」ことに悩んでいる私小説ありますよね?多分、原稿に追われて書くことが無くて、苦し紛れに書くんでしょう。「実験小説的だ」「メタだ」なんだかんだ言って褒められても、どこかつまんない、そんな印象のあるこの手の作品。そりゃそうです、既存の小説枠内で悩んでいるんですから、そりゃそうだ。毎回、同じことだし。
でも、さすがセカイ系を代表する佐藤友哉センセイ。思考回路が違います。セカイ感が違います。当然、言葉で表現できない概念、ものというものはあります(現代思想で言われる暗黙知って奴ですね)。人間はことばでセカイを分節化し、認識しているのです。ならば、新たな言葉(=セカイ認識)を作ってしまえばいい!
つまり、いわば佐藤友哉は自らハルヒの役割をやるぞ!と言っているわけですね。さすがに言ってないか
と、いきなり脱線気味の暴論をのせておきます。さすがに、佐藤友哉はここまではいってないと思いますが、佐藤友哉の小説に対する真摯な考え方というのが伝わってきます。実際、この小説で提示される小説観はどっかの都知事の小説観なんかよりも100倍ぐらい切実だし、今文学が抱えている問題に対して自覚的。しかし、この事に気づいていない作家が余りにも多すぎる!
この小説は佐藤友哉が「現代日本文化」における「文学」に果たすべき役割を明示したものだと思うし(勿論、役割についての異論はあるだろうが)、ある意味この小説自体が現代の『浮雲』にならんとしている…はいい過ぎか。
おそらく過分な評価だと僕も書いていて自覚しているが、僕が小説を読んで久々に色々な面で熱くなったのも事実。この小説を純文学界が高く評価できないならば、それは「僕がこれレベルの作品が日頃書かれているのを知らない」or「日本の純文学の評価制度は文学の枠の中に閉じこもっている」のいずれかとしか思えない(出来れば前者であることを願うが…)。
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